世界拾遺記

映画ドラマ漫画の感想、博物館訪問記、だいたい同じことを言っている

"日本人"よ、『熱源』を読んでくれ

とんでもない小説と出会ってしまった。

2020年1月発表の第162回直木賞を受賞した川越宗一氏の歴史小説『熱源』は、明治から第2次世界大戦終戦までの北海道と樺太で、日本とロシア、2つの帝国に翻弄されすり潰されそうになりながら生き抜いた実在の人物たちを中心にした物語だ。

実在の人物や歴史という点と点を巧みにダイナミックにつなぎ合わせた壮大な歴史小説はこの世にごまんとあるが、帝国主義植民地主義、民族差別、文化人類学などに基づく問題提起を網羅し、登場人物の言動一つ一つに織り込み、読者に否応なくそれら諸問題と対峙させるよう仕組んだ秀逸さにおいて右に出るものはいないのではないだろうか。さらに、日本がそこの歴史と人々を「日本史」から消し去った樺太が物語の舞台のメインとしてフォーカスされていることも、日本が排除した過去に目を向けさせるようにできている。

パブリックな政治の場でも市井でもヘイトが放置され、市民権を得てしまっているこの日本社会に対し、マジョリティである大和系日本人(和人)が向き合うことを拒み続けてきた加害の歴史、負の歴史、「日本史」から排除した歴史を突き付けるこの物語は一石どころか、巨岩を日本社会に投じていると言えよう。直木賞の選考委員は小説としての巧みさだけでなく、作者がこの小説に込めた意図を最大限活かすために影響力のある賞に選んだと確信している。

しかし、『熱源』を植民地主義や民族差別問題の文脈で読み解くには前提となる知識が必要であるにも関わらず、現代の教育からはそれらの視点は国民からは巧妙に隠され排除されてきた。視力0.1で見えるぼやけた世界をあたりまえだと刷り込まれ、めがねで視力を矯正できることすら知らない状態では、この物語の秀逸さを知ることはできない。ということで、私自身まだ勉強途中ではあるが、視力を0.8くらいには矯正できる「めがね」を共有していきたい。

 

 

序章

樺太地上戦

第2次世界大戦の「終戦」後に樺太への上陸と攻撃にとりかかるソ連軍の描写から物語は始まる。第2次世界大戦での日本における地上戦は沖縄だけと教えられるが、かつて日本領だった旧植民地を含めれば、樺太満州でも地上戦が展開されている。

沖縄が文字通り本土防衛のための捨て石にされ多くの犠牲者を出したように、戦争で真っ先に犠牲になったのは辺境地域である一方で、中央政府や本土のために捨て駒として消費された犠牲が歴史の教科書から真っ先に排除されたのも辺境地域である。沖縄地上戦に戦力の補充として投入されたのは北海道出身者からなる部隊だったことはほとんど知られていない。

「中央」と「辺境」という言葉を意識的に使用したが、これは近代主権国家をとらえる上で外せない視点だ。「中央」ができることでそれ以外が周縁化され「辺境」が生まれる。この周縁化のプロセスは国家だけでなく、例えば、男性中心社会で周縁化されてきた女性、日本社会のマジョリティである大和系日本人に対し周縁化されてきた先住民や外国人というように、あらゆるマジョリティ、マイノリティの対立軸として応用される。

樺太地上戦については、終章の部分でくわしく触れるとする。

 

 

第一章

「あ、犬か」

キサラスイを巡って殴り合っていたヤヨマネクフとシシラトカに和人の子供が「"あ、犬"」と表現し喧嘩を売る場面がある。この言葉は、作者による創作ではなく実在するアイヌ差別用語だ。1977年に起きた北大差別講義事件で北海道経済史を担当していた当時の北大経済学部教授・林善茂が本人曰く「ジョーク」としてアイヌと犬を侮蔑を込めてもじった醜悪な差別発言を「講義」している。以下、林善茂が「講義」で口にした言葉を一部引用する。

 

 アイヌは、別にイヌとは何の関係もありません。日本人のイヌとは。ところがこれらの番犬どもがやってきますと、アイヌだ、人間とイヌの合いの子なのであるという扱いをしたわけです。・・・日本人とイヌとの間に出来たのがアイヌだ、だから私たちは駆使されてもしようがないんだと、実際に言っております。 植木哲也『植民学の記憶ーアイヌ差別と学問の責任』p.25

 

この北大教授は北海道出身で終戦直後ひっそりと廃止になった植民学(廃止後は植民地経済学なら経済学へ、というように何食わぬ顔で他の学問領域へと身を隠していった)に籍を置き、あろうことかアイヌ農業の研究者で、彼の師にあたる高倉新一郎もアイヌ研究で飯を食うアイヌ差別主義者だった。彼らは北海道設置100周年記念行事の実行委員など北海道行政に専門家として長く関わってきてもいた。

『熱源』巻末にあげられた主要参考文献に上記で引用した植木氏の著作があげられており、作者はおそらくこのセリフは北大差別講義事件から着想を得たのではないだろうか。

差別講義を行った林と彼の師事した高倉が北海道出身だったように、アイヌへのヘイトスピーチを行ったり、本を出版する人間には北海道出身者が一定数いる。これは個人的な体験だが、北海道で利用した民宿のオーナーが反知性主義極右レイシストだったことがある。

彼は北海道開拓民の子孫でとにかくアイヌを否定し、経済的に成功したアイヌが気に食わないようだった。つまり、先祖伝来の土地で暮らすことがアイヌにとっては差別主義者と隣り合わせで生きねばならないことを意味している。ヤヨマネクフ、シシラトカ、太郎治がヘイトを投げつけられたあの状況は現実が反映されている。

 

 

天然痘コレラの流行

ヤヨマネクフらが北海道で住んでいた対雁村では天然痘コレラが大流行し、キサラスイもそれで亡くなった。これは史実に基づいている。

1875年樺太千島交換条約で日露雑居が定められていた樺太がロシア領に、千島列島が日本領となった。「樺太千島交換条約附録」第4条で、この地域に住む「土人」には3年以内に日本かロシアどちらかの国籍を選択できると認められているはずだったが、同年9月から10月に日本での居住を希望する樺太アイヌ108戸、841人(総人口の約1/3)を、樺太を目視することのできる対岸の宗谷に移住させた。

さらに翌1876年に対雁に強制移住させた。対雁への移住は開拓使長官の黒田清隆の策で、狩猟と漁労を生業としてきた樺太アイヌを内陸の平野へ送り農業に従事させ「開拓」の労働力とする意図があった。人の住んでいなかった対雁をいちから切り開き、男性には春と秋の漁業の合間に農業、女性は製網に従事させ1876年から3年間の扶助で自立させようという無謀な目論見が開拓使にはあった。

しかし、1879年と1886年天然痘コレラの大流行で多数の樺太アイヌが亡くなり、日露戦争で北緯50度以南の樺太が日本領になると1906年までに大半の樺太アイヌ樺太に帰還した。キサラスイが亡くなった2回目の感染症の大流行では358人、人口の約4割が亡くなったと記録が残っている。

 

 

第二章

文明と文化進化論

この物語のキーワードの一つに「文明」があげられる。文脈から文明が何を指すのか推測することは難しくないので、ここでは文化進化論について取り上げる。物語全体の理解に関わる考え方だからだ。文化進化論とは1960年代まで文化人類学で用いられ、文化は野蛮、未開、文明の順に進化していくというものだ。これが西洋基準の偏見に満ちた尺度であることは言うまでもないが、文化進化論の有害さは植民地主義大義名分として使われてきた側面にある。西洋白人社会が文明であり、それ以外の未開で野蛮な非西洋有色人種社会が文明化するために我々文明社会が植民地統治する必要がある、というロジックで使用された。

第一章で「野蛮なアイヌを文明人たる日本人が世話してやってる」という台詞があるが、これが植民地主義のロジックだ。日本は敗戦で植民地をすべて手放したと思われがちだが、琉球処分と北海道の設置は植民地化だ。沖縄や北海道に対し本土、内地の呼び方があることからも中央ー辺境関係は明確であり、有事の際に真っ先に犠牲になるのは植民地たる辺境であることは現代も変わっていない。

 

 

第三章

「あんな野蛮な風習」:文化人類学と普遍人権論の気まずい関係

和人がアイヌ女性のする入墨をが「あんな野蛮な風習」と表現する場面がある。入墨を入れたチュフサンマに対しブロニスワフが言いそうになったが言わなかった言葉もこれで違いないだろう。確かに、現代では身体を改造する少数民族の習慣は非合理的で「野蛮」に映りがちだ。しかし、アイヌの習慣に限定してみてもトンコリや草皮衣、イナウは良くて入墨は「野蛮」だとなぜ線引きできるのだろうか。結局、「良い伝統」と「悪い伝統」に分別しているのは文化の担い手たちではなく非当事者のマジョリティだ。

文化人類学では、現在は文化進化論を改め、文化に優劣はないとする文化相対主義を採用している。ブロニスワフがウラジオストクで講演した内容は文化相対主義と一致する。だから彼はチュフサンマの入墨に対して、己のポリシーを貫き否定しなかった。

だが、文化相対主義は万能だろうか。どんな文化だろうと多様性として認めれば万事平和に収まる特効薬だろうか。

この場面には文化相対主義と普遍人権論の気まずい関係が凝縮された問題提起がなされている。

気まずい関係とは、文化に優劣はないとする文化相対主義と人権を至高とする普遍人権論の矛盾を指す。両者の共存は難しい。

では、どちらが相応しいかを検討してみると、文化相対主義的には入墨は文化の多様性として認められるべきだが、強烈な身体的苦痛を伴い婚姻する女性だけに課せられる家父長制的抑圧を示す文化は人権侵害とも言えるうえ、何でも多様性とするのは思考停止である。しかし、入墨は人権侵害だと指摘すると途端に「野蛮な文化を指導する文明人の我々」という植民地主義が浮かび上がってきてしまう。このように両者は気まずさをより深めていく。

ここで重要なのは、どちらがより卓越しているかを議論することではなく、両者のメリットとデメリットをよく理解し思考を放棄しないことと問題の当事者の判断を尊重することだ。作中でアイヌの他の文化要素ではなく入墨が取り上げられ、民族アイデンティティの再確認として入墨を彫ることを決めたアイヌ女性と、人権と文化相対主義で揺れる非アイヌの登場人物が描かれたことは、「野蛮」と「文明」や文化相対主義と普遍人権論の単純な二項対立では片づけられない思考の必要性を訴えかけている。

気まずい関係の話題で1つ確認しておきたいのが、相対主義や多様性といった響きの良い言葉を妄信し乱用することは、例えばアイヌを野蛮だとする文化進化論も思想の多様性の一つとして認めかねず、思考放棄にほかならないということだ。例示したロジックは差別主義者が差別やヘイトを正当化する際に用いている。文化相対主義や多様性は、文化進化論への反省からマイノリティの文化がマジョリティによって理不尽にジャッジされないよう守るためのロジックであり、それで差別を擁護するのは言葉の簒奪だ。これと似たような批判として、カール・ポパーによる寛容のパラドックスがある。寛容な社会は不寛容にも寛容であるべきと不寛容な者は求めるが、不寛容を認めてしまうと寛容な社会は不寛容にのっとられてしまう。一見矛盾しているようだが、寛容な社会を守るためには、寛容な社会は不寛容には不寛容でないとならない。

「気まずい関係」以外にもこのシーンは検討の余地がある。和人がアイヌ文化について「野蛮」とジャッジしている部分についてだ。マジョリティが「正しいマイノリティ」について定義しジャッジしたがるのは典型的な差別構造の1つであり、民族差別以外でも頻繁に起こっている。

第一章の部分で言及した北海道のネトウヨアイヌ差別主義者は、アイヌ文化やアイヌアイデンティティアイヌ語など本人は和人であるにもかかわらず、話の都合でアイヌは滅んでいたりアイヌの隣人がいたり、トンコリは他民族のパクリだとか、ウポポイ開館に向けて新しく作られたアイヌ語の語彙は認めないだとか、アイヌの何たるかをジャッジしていた。ツッコミどころしかない中で、あえて指摘するなら、雅楽の楽器の多くは大陸から伝わったものであるし、外国語を取り入れたりそれまで語彙になかった言葉を創って補うなど日本語では日常的に行われているように、マジョリティである和人がやる分にはいいがマイノリティには認めない理不尽な不寛容さがある。

そもそも、マイノリティのアイデンティティを持たない非当事者がなぜマイノリティのあり方や文化について定義ができると思っていることが既におこがましい。差別する側の属性にとって、される側を自らに都合のいい存在に抑圧するという差別の構造がこのジャッジに表れている。

日本政府が実際に行ったジャッジでは、1871年と1876年の2回に渡りアイヌ女性の入墨と男性の耳飾りを禁止し、2回目にいたっては「陋習」とまで言い切っている。衣服や装飾品、チセと呼ばれる家屋に居住することなどその他の習慣については禁止していないのは、寛容ではなくマジョリティによる一方的なジャッジだ。

このように、アイヌ女性が婚姻を期に習慣に則り入墨をいれた、という場面だが、エスニックアイデンティティ文化人類学、普遍人権論など様々な視点から何度でも検討できる多方面からの問題提起をしている価値のあるエピソードになっている。

 

理不尽の中で自分を守り、保つ力を与えるのが教育だ」:同化政策と教育

教育も『熱源』の物語全体に流れる通奏低音の一つだ。教育は同化政策の効果的な実践の場として機能してきた。授業は日本語で行われアイヌ文化は排除されていき、アイヌの文化や慣習の引継ぎがままならない環境に侵食されていっただけでなく、子供から親へと学校での同化政策が伝わる側面も兼ね備えていたのが学校だった。学校に通うヤヨマネクフがアイヌの生活を知るわけでも、かといって和人であるわけでもなく宙ぶらりんの気分だ、とアイデンティティの動揺を語っているがそれがまさしく同化政策の影響だった。

学校教育がアイヌ文化の担い手の減少や弱体化を促進した同化政策であることは揺るがない。これは和人によるアイヌへの迫害に触れようとしないウポポイの博物館すらキャプションで言及している。だから太郎治が学校の先生になりたいと言っているのが最初はアイヌ自身が同化政策の担い手になる皮肉さを感じずにはいられなかった。しかし、ブロニスワフと太郎治が学校を開きたいと言ったときに、学校=同化を強制される場と考えるヤヨマネクフに太郎治が発した「理不尽の中で自分を守り、保つ力を与えるのが教育だ」という言葉が光る。教育のあるべき姿が端的に表現されている。

これは明治時代の皇民化と同化を狙った教育だけに適用されるわけではない。現代の学校教育にもあてはまる言葉だ。にもかかわらず、理不尽に晒されている先住民、女性、貧困家庭出身者、障害者、LGBTなどマイノリティほど教育へのアクセスが阻まれていることに言及しておきたい。アイヌの例に限ると、アイヌの大学進学率は和人よりも低く、北海道アイヌ協会から奨学金を受給するとアイヌであることが知られるため受給を諦めたという報告もある。(北海道大学アイヌ・先住民研究センター『2009年 北海道アイヌ民族生活実態調査報告書』2010年3月発行)ウポポイの展示で許せなかったことに、学年一の秀才でありながらアイヌという出自を理由に教師から差別され進学が叶わず、料理人となりアイヌ料理の店を持った男性を差別の部分だけ抜かしてアイヌ料理人として伝統を引き継ぐアイヌとして美談にされていたことがある。マイノリティこそ理不尽から自分を守るために教育が不可欠でありながら、教育にたどり着けない矛盾と理不尽が放置されてきたのが現状だ。さらに新自由主義の煽りを受けて自己責任論の餌食にもなりやすい問題でもある。

ヤヨマネクフらが卒業した後の1901年に「旧土人児童教育規定」が定められ、学習内容は修身、国語、算術、体操、女子は裁縫、男子は農業で和人の学校にある地理、歴史、理科は除外され労働力としてすぐ機能するものだけが与え、教育を受ける機会が奪われていった。さらには、1916年に和人の学校は4年から6年に変更になったが、アイヌは4年のままでさらに和人との教育が差別化され排除されていった。

 

頭蓋骨の形が人種・民族の優劣を決める?:形質人類学

頭蓋骨の形には人種・民族に基づき形に特徴があり、それで優劣が決まるこのようなやりとりがある。人種・民族の身体的特徴が優劣を、未開と文明を分けるとし人体や人骨の調査をしていた形質人類学という学問がある。客観的な調査・研究というより、ある人種・民族を「未開」「野蛮」と決めつけ、その理由を身体的特徴に結果ありきで求めた学問だった。

小説中では頭蓋骨の形が出てくるが、アイヌに対して行われた身体検査だけでも脇のにおいや頭髪、体毛などをあげつらい、どれも侮蔑的な文脈でアイヌが如何に「未開人」であるかを説明するためにこじつけられている。身体的特徴を理由に差別することが非倫理的であることは言うまでもない。この人種・民族ごとに固有とされた身体的特徴は、現在では各個人間の差異程度しかないものであり、民族を決定する要素にはなり得ないと文化人類学では定義されている。

例えば、ステレオタイプな日本人の表象として、ストレートな黒髪に細くつりあがった目、低い鼻、薄い唇で描かれることがある。しかし日本人個人個人を比較してみると、髪だけでも天然パーマや縮れ毛、くせ毛など様々だ。さらに言えば、アメリカ人を金髪碧眼の白人で描くことは人種差別だ。

論理的な側面から指摘するならば、例え人種・民族的に進呈的特徴が認められたとしても、それと文化進化論的な「未開」「文明」の分類に相関関係があったとしても、因果関係はなく、因果関係に結び付けるのは論理的にも誤った理解である。もっとも、文化進化論的な民族の優劣判断が間違ってはいるが。

戦前の形質人類学の罪で現代も解決していない問題に、大学による遺骨返還問題がある。形質人類学の研究のためにアイヌ琉球など先住民族の墓が無許可で暴かれ埋葬されていた遺骨が研究者らによって盗まれ、子孫や民族の代表者らからの謝罪と返還要求が現在もその大多数において実現していない。返還要求を無視する大学や保管状況すら把握していない大学もあり、アイヌ琉球双方とも訴訟を起こしている。

アイヌの遺骨盗掘問題に限ると、今年開館したウポポイに慰霊碑と身元が分からなくなってしまった遺骨の共同安置施設が併設されている。しかし、慰霊施設はウポポイのメイン会場から数km離れた場所にあり、パンフレットの地図に一言載っているだけでなんのための慰霊施設か、その経緯すら言及がない。なぜ「民族共生象徴空間」内に置くことはできなかったのだろうか。当事者と盗掘した大学とで返還も謝罪も何も解決しておらず、盗掘の違法性や遺骨を利用した形質人類学の差別ありきの研究の数々が周知されていない状態で、政府のアイヌ政策推進会議は「アイヌの人骨を象徴空間に集約し、研究に寄与する」として遺骨の研究目的での使用をやめようとしていない。マジョリティがマイノリティを都合よく管理する差別構造が温存されたままだ。そもそも、一か所に集約することはコタン(集落)ごとに慰霊するアイヌの伝統に反するとして、日本弁護士連合会に人権救済の申し立てがなされていたが結局覆らず、白老での共同施設での慰霊はマジョリティからの管理をマイノリティの手に戻すことすらかなわなかった証だ。

縄文人の墓の「発掘」と異なる点は、「未開」「野蛮」のレッテルを絶対なものにすべく、その結果ありきでの調査のために遺族が存命している人の墓が無許可で暴かれたことにある。和人の墓に対してそのような蛮行がなされてきただろうか。その非対称性を見れば、これが差別の何物でもないことは一目瞭然だ。

このように、形質人類学は露骨な人種差別の口実に転用されてきた。現在も、日本列島人(主な3つの民族、大和系、琉球アイヌ)のルーツを探るためのゲノム解析研究が進行中で、中間経過として、日本列島には縄文人が生活していたが大和系日本人は大陸から渡ってきた人々のDNAとほとんど置き換わっておりDNA上では韓国人に最も近く、縄文人のDNAをより多く残すのはアイヌ琉球人であると判明している。しかし、この日本人のDNAにまつわる研究はアイヌ民族否定論の科学的根拠として長年転用されてきた。民族はアイデンティティによって決まることを否定しDNAに民族の根拠を求めることはナンセンスでありながら(国連は民族の根拠をDNAに求めることを否定している)、差別の根拠としてもてはやすことが止まない。「優秀なアーリア人」を根拠に「劣等種ユダヤ人」の殲滅を実行した負の歴史を共有しながら、現在もDNAや「人種」が差別の正当性の担保にされている。

 

 

第五章

自らの出自を疎み始めるアイヌ

アイヌ」が侮辱を含む言葉になり果ててしまったために、「アイヌ」の呼称を止めるよう嘆願があったのは事実である。だが、アイヌを侮蔑語に貶めたのはアイヌではなく、和人である。自らのアイデンティティを否定せざるを得ない理不尽の結果だ。

これをアイヌ差別のロジックに利用する差別主義者は多い。しかし、植民地主義の時代の被支配者の言葉を額面通りに受け取り理解するのは、その発言に至った歴史的背景を無視し、透明化する行為に他ならない。例えば、沖縄地上戦でアメリカ軍の捕虜になって生き恥晒すくらいなら死んだ方がまし、と集団自決していった人々を、そんな思考にはまって死を選んだ本人の責任、死にたくて死んだ人の慰霊に税金をいちいち使うなと言う人はまずいない。全体主義と戦争の狂気と武士道の強制という歴史的背景を汲んで、自決以外の選択肢が彼らにはなかったと理解しているから戦争の悲惨さと残虐性を象徴する事件として教科書に載り続けている。その理性と知性による手続きをなぜ「日本人」には適用できて、アイヌにはできないのだろうか。差別とはどこまでも理性の放棄であることがよく示されている。

 

ただそこで生きる

我々マジョリティは、先住民や少数民族にばかり「伝統的な生活」を求め、現代に馴染んだ生活を送っていると勝手にがっかりしたり、その民族は衰退した、滅亡したと一方的にジャッジしてはいないだろうか。自分たちは「伝統的な生活」などほとんど捨て去ったにもかかわらず。畳のある家に住み着物を日常的に着て毎食米を食う日本人なんてもうほとんどいない。それでも日本人は衰亡した、伝統が滅んだとは見なされない一方で、アイヌには民族衣装を着て伝統的な暮らしと生業が達成されていないと勝手に滅んだものと扱う。各人におけるアイデンティティの問題であり、マジョリティの許可に依存するものではないはずだ。

この非対称性は、マジョリティによるマイノリティの主体性の否定によって支えられている。

 

 

第六章

「ゴシプシェィ!」

物語は第2次世界大戦末期の樺太へのソ連軍の侵攻で締めくくられる。そこでオロッコ(ウイルタ)出身で諜報部隊に所属する青年が登場する。彼が発した「ゴシプシェイ」はオロッコの言葉で「こんちくしょう」という意味だ。第二次世界大戦だけでも、北海道出身の兵士は日本軍が玉砕していった戦地で大量に亡くなっていった。そしてさらなる犠牲となったのは周縁化された先住民族あることには変わりなかった。源田のような諜報機関勤務で北緯50度線の国境地帯に召集され配属された先住民族出身兵士は実在する。

土人教育所」で天皇を崇める皇民化教育を受け召集令状が出され出征した先住民出身者は和人同様、ことごとく帰らなかった。戦後の日本兵の待遇というとシベリア抑留が有名だが、樺太先住民族のオロッコやギリヤーク(ニブフ)から招集された兵士もソ連に捕らえられ拷問に耐え戦犯としてシベリア送りにされている。シベリアから生きて帰還したオロッコの元兵士が1977年に全国教育研究集会でした講演で彼が、死んでいった同胞への哀悼と政府、天皇の戦争責任を問いただすのに繰り返し発した言葉が「ゴシプシェィ」だった。この訴えは国会に届けられ、未払いのまま放置されている少数民族出身軍人への軍人恩給支給について政府は問いただされた。しかし、政府は陸軍諜報員の招集は非公式のものであり政府による公的な救済をするには値しないと切り捨てた。

源田のモデルでほぼ確定なのが田中了が取材したゲンダーヌという名のオロッコの元日本軍兵士だ。巻末の主要参考文献に『ゲンダーヌ ある北方少数民族のドラマ』があげられている。もう一冊彼を取り上げた本に、同氏の『サハリン北緯50度線ー続・ゲンダーヌ』がある。

「ゴシプシェィ」の意味を知ったのもこの本からだ。作者は、第2次世界大戦を描くのに、日本人を中心にしたのではなく、ゲンダーヌを選んだ。「中央」によって使い捨てにされ歴史からも葬られた北方先住民族の存在と、うやむやにされ和人にとってタブーとなった天皇の戦争責任を白日の下に引きずり出すために。ゲンダーヌの本を読んでまず、元日本臣民らが天皇の戦争責任によく言及していたことに違和感を感じた。ネガティブな意味ではなく、私の知る第2次世界大戦には天皇の戦争責任はほとんど登場しないからだった。出てくるときと言えば、戦後にGHQ天皇の戦争責任より、国民統合のために天皇制の温存を決めたというぐらいで、天皇の戦争責任それ自体が忽然と姿を消している。教えられた記憶がそもそもなかった。

恥を忍んで告白すると、樺太先住民が帝国陸軍諜報員として招集され従軍していたことも、彼らは戦後に日本政府から見捨てられ存在すら公に認められず救済もなかったとは全く何一つ知らなかった。『熱源』を読んで参考資料を探しに図書館を歩いていた時に偶然見つけて読むまで全く知らなかった。大学受験の関係でそこらの人間よりはるかに「日本史」について勉強したはずなのに。その「日本史」がいかにマジョリティの物語であるかを改めて痛感する。シベリア抑留も「日本人」が受けた戦争の理不尽、日本国民こそ戦争の被害者とする戦後の歴史認識を補強するある種のプロパガンダとしてしか日本では扱われていない。

 

 

最後に

この物語が最初から最後まで日本の歴史認識を問いただし、加害の歴史と排除してきた辺境の歴史と向き合わせる意図が練りこまれていることにもはや異論はないはずだ。それを歴史修正主義が公然とまかり通り、加害の歴史を改ざんし被害者意識だけを肥大させ、辺境の歴史には蓋をしてなかったことにし単一民族神話を強化する現在の日本に突き付けたことに感動せずにはいられなかった。不寛容に寛容すぎるこの社会には絶望してばかりだったがまだ希望はある、ここにあると思えてくる。この希望こそ「熱源」だ。理不尽に翻弄されながらも「熱源」を見出し生きていく人々の物語を通して、この理不尽だらけの社会に生きる人々に「熱」を灯していく。これこそこの物語の真の力ではないだろうか。

 

 

アニメ『進撃の巨人』感想③:血統で定義される「民族」エルディア人

他人にアイデンティティの決定権を握られる理不尽

マーレ編でのエルディア人隔離政策には、その人権侵害っぷりにばかり目が行っていて前述した「居心地の悪さ」にばかり気を取られていたが、もう一つの「違和感」をようやく認識した。

 

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エルディア人の民族アイデンティティは、自分で自分自身を何者か認識しているかではなく、血統によってのみ決まっている。本来、民族アイデンティティは血統ではなく自分で自分を何者だと考えるか自分自身で決定するものであり、他人や血統によって決められるものでななければ、たった一つにも決まらない。

しかし『進撃』の世界では血液検査の結果、先祖にエルディア人が一人でもいればエルディア人と「他人によって」決められてしまう。

例えば、六代前の先祖に一人ロシア人がいるとわかった途端に、両親が日本人で日本うまれ日本育ちで日本語しか話せないのにロシア人と決めつけられ、日本国籍を剥奪されて政府から認められた在留資格がない限り、故郷に居場所がなくなってしまう。これが『進撃』世界でのエルディア人の定義だ。(例でロシア人をあげたのは、私自身にどうやら六代前の先祖にロシア人がいるらしいからであって、それ以外に他意はない。)

血統で民族アイデンティティを他人が決めることがいかに理不尽な暴力かがわかるだろう。民族に限らずアイデンティティを他者が決めつけることはあってはならない。

 

 

血統で決まる民族?:ユダヤ

エルディア人のモデルになっているのはユダヤ人であることは言うまでもない。ユダヤ第二次世界大戦後に建国されたイスラエルには、世界中に離散したユダヤ人にイスラエル市民権を与え帰還を促す帰還法で、ユダヤ人の母から生まれたもしくはユダヤ教のみを信仰する人をユダヤ人と定義している。さらに、ユダヤ人を先祖に持つ子孫はユダヤ人でなくともイスラエルの市民権が与えられる。

ユダヤ人の定義としてもう一つおさえておかなければならないのがナチスドイツでの定義だ。「帝国市民法」と「ドイツ人の血と名誉を守るための法律」の二つからなるニュルンベルク法と呼ばれるナチスが1935年に定めた法律があった。

ユダヤ人を従来の、ユダヤ教の実践やユダヤ文化のコミュニティへの所属などによって醸成されたユダヤ人のアイデンティティではなく、血統や出生によってユダヤ人が定義され、ナチスの人種政策のイデオロギーが反映された。

祖父母4人のうち、3人以上がユダヤ共同体出身の場合はニュルンベルク法によりユダヤ人と扱われ、ユダヤ共同体に生まれた祖父母を持つ人は人種的にユダヤ人と定義された。

自分では選ぶことも変えることもできない出生ガチャでユダヤ人の祖父母を持っただけで、自分はユダヤ人でないと思っていても社会や政府によって決めつけられ、公民権を奪われ、彼らを「二等市民」にしたのがニュルンベルク法だった。(ナチスの人種政策はユダヤ人だけでなく、ロマ(ジプシーとも呼ばれていた)、黒人、スラブ人にも及んだ。他にも障害者の安楽死社会主義者共産主義者、同性愛者も迫害された。)

この定義には、ユダヤ共同体とは関わりなく生きてきた自身をユダヤ人と思っていない(つまり、ユダヤ人のアイデンティティを持っていない)何千もの人々が含まれていた。なかには、キリスト教に改宗していたり、キリスト教徒の隣人と馴染むためにクリスマスなどキリスト教の祝日を祝う人々もいた。そんな人々が法律一つで急にアイデンティティを否定され、権利を奪われた。

エルディア人の隔離政策や人権剥奪が間違っているのは、モデルとしているナチスによる人種政策同様に不当だからだけではない。民族アイデンティティが出自によって決めつけられることがあってはならないからだ。

 

 

血統でのみ国籍が決まる国:日本

さて、日本人にとって民族アイデンティティや○○人(日本人やアメリカ人など)は血統と同一だと感じている人も多いのではないだろうか。

日本では日本国籍を持つ親から生まれた人にのみ日本国籍が与えられる血統主義のみを採用し、二重国籍を認めない世界でも稀な国になってしまった(褒めてない。)多くの国は、その国で生まれた人にも国籍を付与する出生主義と血統主義を併用している。

実は日本も国籍だけで言えば、血統でアイデンティティを決める国だ。血統と国籍が一致するのが多数派であるために、現状を世界基準に合わせることへの関心や必要性が高まらないうえに、反発も大きい。

血統、出生で何人かが決められてしまい、それに沿って人権の剥奪や差別に晒される人々を描いた作品に日本で日本語でアクセスできるうえにこんなに面白い。民族アイデンティティと人権の問題に目を向ける機会となることを祈る。

 

 

 

(余談)

このアイデンティティは、日本で両親も日本人で同様の出自の日本人に囲まれて生きてきた日本人にはあまりピンと来ないかもしれない。昨年、ケバブ屋でウズベキスタン人に会ったとき、彼はまずトルコ人だと名乗った。トルコ共和国出身なのかと思ったら、トルコ系民族という意味だった。

トルコ系民族は、トルコから新彊ウイグル自治区東トルキスタン)にかけて、主にトルコ、アゼルバイジャンウズベキスタン、新彊に居住してきた。トルコ系が多いというだけで他にもペルシャ系などをはじめ多様な民族が暮らしている。

国籍(ウズベキスタン)よりも民族(トルコ系)が彼のアイデンティティで先立つのかと、もはや興奮してしまった。民族、国民、国民国家主権国家体制、ナショナリズムに関心がある旅人なので。

これくらい、民族アイデンティティと国籍、出身国の関係は多様である。中央アジアのトルコ系民族が居住してきた地域への渡航歴と関心と多少の知識があったためウズベキスタン出身者がトルコ人と名乗っても納得できた。一時期、トルコ系民族について調べることが個人的にブームだったからだ。

民族と国民のセンシティブな関係への歩み寄りは、フィクションへの理解だけでなく、自らの所属する社会とその社会の属する世界への新たな視点の獲得にもなる。

 

 

 

参考

ホロコースト百科事典 | United States Holocaust Memorial Museum (最終閲覧2021年1月31日)

 

 

アニメ『進撃の巨人』The Final Season 66話感想:ガビを煙たがるな

日本での視聴者の大多数は「マーレ人」

マーレ編でのパラディ島勢力による奇襲は『進撃』冒頭の超大型と鎧による壁内人類への攻撃の立場を入れ替えた再現であることは一目瞭然だ。視聴者は、それまでの壁内での死闘を見てきたのもあり、エレンたちの視点からこの奇襲を見てしまう。何万人も虐殺され、一方的に敵視されてきた壁内人類が戦力をたくわえ反撃の狼煙を上げた、と。

しかし、現実はどうだろう。『進撃』を見ている日本人の大多数は、日本に住む大和系日本人、つまり民族的マジョリティでありマーレ側だ。やりたくない仕事を押し付け、人権を実質的に規制し、偏見を向け、国民のガス抜きにマイノリティへのヘイトを利用し、マジョリティを批判する口を塞いできた側だ。なおかつ、これらに無自覚で無批判だ。

 

被害者意識しか持ち合わせていないガビ

そんな特権に無自覚な人間が突然、偏見を抱いている「敵」から攻撃されたらどんな反応をするだろうか。ガビのような反応をするのではないか。今まで散々「悪魔」と呼んで差別と偏見を向けていたのにそれをそうとは認識しておらず、一方的に自分たちは被害者でしかないと思い込んで憎しみをあらわにしていまうガビのように。

ポイントは、被害者意識しかないことだ。

ガビのセリフ、

「ウドとゾフィアがなんで殺されたのか、わからないから」

「ウドもゾフィアもエレン・イェーガーにやられたんだよ」

に表れている。「マーレがパラディ島を攻撃したから」がすっぽり抜け落ちていて、島を「悪魔」呼ばわりしたり、日常的に「皆殺しにしてやる」と言ってることを加害だとは認識しておらず、被害者感情のみに支配されている。

 

ガビを煙たがるな

襲撃されて島やエレンを一層憎悪するガビに対し「同じことエレンたちもされたのに」「被害者はガビだけじゃない」と思うのは容易いし、これまでの壁内人類の被害を考えれば、ガビは盲目的で世間知らずに映る。アンチが多い理由もここにあるだろう。

しかし、現実の、自分がマジョリティをやってる社会でマイノリティから攻撃されるレベリオ襲撃のようなことがあったら、衝突のバックグラウンドなど一切考慮せず被害者感情に飲み込まれ、偏見そのままに悪魔、皆殺しと叫ぶガビのように怒り狂う人が多いのではないか。

実際、日本では国内の外国人に対してガビのようなマインドでガビのように憎悪を募らせている日本人が残念ながらそれなりにいる。Twitterの桜や日章旗アイコンがそれだ。彼らは決してネット上だけの存在ではない。隣人や同僚や親戚が「ガビ」かもしれない社会が日本だ。日本社会で日本人をやってる以上、ガビを煙たがってはいけない。ガビを煙たがることは、外国へのヘイトや狭い視野に囚われ何が何でも「祖国」を妄信することを放置することを意味する。実質、それらを肯定しているようなものだ。

「祖国」への愛国心に目が曇り、「祖国」の加害性を無視し被害にばかり固執し攻撃も辞さない者を自分とは無関係な異端者だと目をそらしてはいけない。自分の中にも銃を握りしめた「ガビ」はいると常に考えるべきだ。

 

もちろん、エレンたちは散々いたぶられてきたのだから、収容区での虐殺が免責されるわけではまったくない。その逆も然りだ。そもそも戦争加害の責任を2000年間押し付けあっている物語が『進撃』だ。

 

 

もうまったくの余談だが、現パロのガビはQアノン信者で先日のトランプ支持者による議会での暴動をANTIFAのせいと考えてるうえBLMを暴力認定してる移民2世のアメリカ人って感じがする。

 

 

アニメ『進撃の巨人』感想②:歪んだ歴史認識

この作品のテーマ:歴史は事実ではなく「物語」

正義と悪のせめぎあいでも正義の暴走を描いたわけでもなく、歴史認識がかみ合わず対立しあい、悲劇を生んでいるのが進撃だと思っている。この作品では要所要所で歴史と歴史認識がキャラクターやストーリーを動かしている。

 

民から記憶を奪って歴史を改ざんした壁の王

改ざんされた歴史に疑問を抱いて調査兵団に入団し、壁内人類の運命を変えたエルヴィン・スミス

「本当の歴史」を知って目覚めた男・グリシャ・イェーガー

民に人類の歴史を返すことを決めたヒストリア

「英雄」の名誉と特権的地位のために歴史を隠蔽したタイバー家

エルディア人と巨人を従え軍事国家となって100年経っても過去の戦争被害ばかりで戦争加害からは目を背け続けてきたマーレ

 

この中で、歴史に対する態度がかなり危ういのがグリシャらエルディア復権派とマーレだ。グリシャは解読できていない古語を自分に都合よく解釈し、しかもそれを可能性にとどめるのではなく事実だと断言してしまっている。歴史が捏造された瞬間だった。このご都合解釈を信奉して突き進みジークを駒にして利用した結果、彼らは破滅した。

思うに、グリシャが信じた歴史は恐らく真実でもあるだろう。効率よくインフラを整えるために巨人を使ったこと自体はあってもおかしくない。

しかし、解読できていない古語をあたかも読めたように偽ることが許されるわけではない。巨人の力で橋をかけたことを「大陸の発展に貢献した」と結論付けたのも何の根拠もない。

グリシャらは「大陸の発展に貢献した」と信じたかったのだろうが、実際はエルディア人の居住地域の整備にのみ巨人の力は使われ、支配されたその他の民族との差別化が進み分断を深めただけだったかもしれない。歴史に対する評価は誰からの視点なのかとか、時代によっても変わる。

さらには、巨人の平和利用は兵器利用を帳消しにも免責にもしない。信じたいものだけを信じることは危険だ。

 

マーレの歴史認識もグリシャのそれと同様の危うさと欺瞞がある。巨人大戦が終結して100年が経ち、その間軍事国家としてエルディア人を使って他国と戦争してきた。それでも100年前の戦争の被害ばかりに言及し、戦争加害についてはまったくの無視だ。

巨人に踏みつぶされ食われてきた過去を嘆きエルディア人への憎悪をたぎらせることはあっても、ここ100年で巨人を使って他国を踏みつぶしてきた歴史はまるでなかったかのようにスルーしている。中東連合とのスラトア要塞戦で空から降ってくる巨人兵器を見て「俺たち(マーレ)の先祖もこうして食われたのか」とつぶやいたのがすべてを物語っている。俺たち(マーレ)はこんな非道なことをされたのに同じことをしているのか、にはならない。

 

戦争加害から目を背けることは背ける側からすれば、居心地が良いだろう。しかしそれでは被害国との関係修復は停滞するどころか、亀裂を深めていくだけだ。加害を認めないことは加害はなかったという歴史修正をもたらし、外国からの評判を落としていく。加害と向き合わない点において、エルディア復権派もマーレも同じである。

 

グリシャらエルディア復権派とマーレの歴史認識の齟齬は、「歴史」とは物語に過ぎないことを如実に表している。「歴史」は語る側の視点によって180度異なる姿を見せる。エルディア帝国を称え巨人の力の利用を正当化するシナリオの「歴史」を求めるならば、それを示す「歴史的事実」だけを集めてつなぎ合わせ、逆にエルディア帝国の残虐性と現在のエルディア人に対する抑圧を正当化したいなら、そのストーリーに導く「歴史的事実」だけをピックアップして並べればいい。

こうして「歴史」は、民族や国家のアイデンティティや誇り(愛国心)を養成する機能を負ってきた。この役割を過度に期待した結果が、グリシャによる歴史の捏造とマーレによるエルディア人への人権侵害だ。「歴史」は語り手のイデオロギーや思惑が反映された物語であることを念頭から外してはならない。

 

 

 

アニメ『進撃の巨人』感想①:マーレ編全体を覆う「居心地の悪さ」

ネカフェや岩盤浴場でちょこちょこ読み進めてきた『進撃の巨人』のあにめファイナルシーズンの放送が始まった。昨シーズンで巨人を駆逐し、エレンら壁内人類の「敵」は、巨人から自分たち以外の世界となったところからファイナルシーズンは始まる。

原作漫画を予習済みのため、いまさらストーリーに驚きはしないが何度目だろうと『進撃』の世界観に圧倒されないときなどない。ここでは、とりあえず現在アニメ放送中のマーレ編での感想を書いていきたい。

「居心地の悪さ」と題したが、作品への批判では決してない。批判の余地などほとんどない作品だと思っている。この「居心地の悪さ」は我々の現実世界にも共通するものであり、むしろその側面を抉り出しているように思えてこの作品には圧倒されっぱなしだ、という内容になっている。

 

 

オメラスに居座り続ける人々

 『ゲド戦記』で有名なル=グウィンの作品に『オメラスから歩み去る人々』という短編がある。地下に少年が劣悪な環境で監禁されているおかげで平和と幸福が維持されているオメラスでは、住人は彼のことを知りながら知らぬふりをして地上で幸福な生活を享受する。

マーレ編は、いきなりオメラスの歪さを見せつけているようで「居心地が悪い」のだ。エルディア人をスケープゴートにすることで成り立っている世界が発する、スルーもできるがそうすることで一層増す類の居心地の悪さにいたたまれない気持ちにさせられる。マーレが100年にわたる戦争加害から目を背けていることと、戦争責任を誰も取っていないことが進撃のマーレ編全体に漂う違和感というか居心地の悪さ、気持ちの悪さの正体ではないだろうか。

 

 

パラディ島に依存する世界

進撃の世界では、現在生きているエルディア人に過去からのすべての戦争責任が押し付けられている。かつてのエルディア帝国による他国への侵略やジェノサイドも、ここ100年マーレが戦争を繰り返してきたのもすべて現在生きているエルディア人の責任にすることで世界は回っている。

エルディア人はこの世界のオメラス地下の少年だ。特にパラディ島は、世界の不都合の不法投棄場所にされ、憎悪の掃き溜めの島が倒壊寸前のジェンガを支える最後の1ピースのように、世界を保つための必要不可欠な部品に勝手にされている。なんて不健全な世界だろう。

 

 

宙に浮いた戦争責任

世界の秩序をパラディ島に依存するシステムは、エルディア帝国の戦争加害に戦争を主導した帝国の誰も責任を取らなかったことに端を発しているのではないだろうか。

カール・フリッツをして虐げられたマーレに心を痛め戦争を終結させた平和主義者と認識することもできるが、島に築いた箱庭ですべてを放り投げ平和を愛する王としてままごとに興じることを選んだとも言える。これも歴史認識問題の一端だ。カール・フリッツを平和主義と称えたヴィリー・タイバーには、フリッツ王を英雄に見せたい動機があった。(そもそも、あの演説の狙いの一つはパラディ島攻撃中に背後から撃たれないようにするためであることは確実だ。)

彼は平和を願って内戦を終わらせたかもしれないが、達成できたのは壁内の一部の人間にとっての100年の平和だけだった。内戦を終わらせたとき、せめてタイバー家ポジションにフリッツ王家がついていればエルディア人は「悪魔」にはならず、大陸に平和をもたらせたかもしれないと考えずにはいられない。

 

 

エルディア人に生まれた罪

マーレがエルディア帝国で長年虐げられてきたのは事実だろう。それを否定する気はない。ただ、エルディア帝国が崩壊してから100年経ち、今のマーレ人で帝国時代に生まれはほぼいないはずだ。出生ガチャでマーレ人を引いただけの人々が、出生ガチャでエルディア人を引いてしまっただけの人を悪魔と罵っている。自分ではどうしようもできない出生が宙に浮いた戦争責任を押し付けられ世界の理不尽を一身に受けさせる理由になっていいはずがないのに、それがまかり通っている。出生による理不尽を指す市民権ペナルティがあまりにもキツすぎる。

まさにエルディア人に生まれた罪だ。『ゲームオブスローンズ』でティリオンが実の父に濡れ衣とわかってて死刑判決を言い渡された裁判での演説を思い出してしまう。「子の身体に生まれた罪で裁かれてきた」というティリオンの言葉がエルディア人にも当てはまる。

 

 

現実が反映された地獄の数々

旧エルディア帝国の戦争責任だけでなく、マーレの戦争責任も現在生きているエルディア人に押し付けられている。マーレの国家としてはずせないパーツの一つが被差別民たるエルディア人になっている。この構図はかつての日本にもあった(現在進行形でその因習は引き継がれている。)士農工商の下の被差別階級がそれだ。身分は生まれによって決まったため、出生ガチャによる理不尽である点も同じだ。作者が作中で生み出す地獄が強烈なのは、現実の地獄への解像度が高いからなのはもう何回でも指摘したい。パラディ島がスケープゴートになっているのも、9.11をきっかけとしたイスラモフォビアや最近では嫌中の高まりがあてはまる。

 

 

視聴者である自分はマーレかエルディアか

 マーレ編で感じる居心地の悪さは加害の責任をすべてエルディア人に理不尽に押し付けられていることだけではない。その理不尽を誰もが指摘しないことにある。

エルディア人やパラディ島をオメラスの地下の少年にしなくても済む世界を目指すべきだ、とはならない。こんなシステムおかしいだろと言っているのは(視聴している/読んでいる)自分だけで、自分が間違っているから他に誰もそう考える人がいないのかと、多数決の勢いに気圧されてしまう。

まるで試されているかのような落ち着かない気分になってくる。アイヒマンになるかシンドラーになるかを。あの全体主義の中で、自分はシンドラーになれるのか自信がないことの表れでもある。

 

善悪の判断を試されているだけではなく、自分の民族アイデンティティは住んでいる国においてマジョリティだから立場的にはマーレであることも「居心地の悪さ」に起因している。マーレは自分を写している。自分もオメラスの地上の住人だ。

民族的マジョリティとして享受している社会的な特権を意識することは日常生活ではまず起こらない。『進撃』は、その無自覚な暴力性を強烈に眼前につけてくるので苦しくなる。

苦しくて不快で目をそらしたくなるが、自分はやりたくない仕事を外国人に押し付け、マイノリティから抗議の言葉を奪う「マーレ人」である現状を忘れてはいけない。これは自戒だ。これぐらいしかできない。

 

 

 

『ウィンクス・サーガ〈宿命〉』S1感想:魔法の強さが「強さ」じゃないファンタジー

Netflixオリジナルシリーズに新登場したファンタジー作品、『ウィンクス・サーガ〈宿命〉』。1エピソード50~60分を6話で1シーズンとなっている。まだまだ謎は残るものの、キャラクターが出そろって主人公たちの成長も見られて今後の展開が気になるところまでが公開となっていて、魔法、バトル、過去の因縁や傷を抱えた大人たち、ティーンエイジャーの葛藤と成長、ロマンスと盛りだくさんだ。

 

イギリスの魔法学校を舞台にした闇の魔法使いとの戦いを描く作品ということで、ハリーポッターぽさがあり、作中でもアザ―ワールド(ハリポタでいうところの魔法界)に来たばかりの主人公が早々に「ハリポタ知らんのかい」と言われている。作品の設定を理解する一助になるが、ファンタジー作品はどれもお互い共通点があるもの。『ウィンクス・サーガ』では妖精たちは、スマホもインスタも自動車も普通に使っていて合理的な世界が広がっている。

 

 

あらすじ

人間の両親のもとに生まれたアメリカのファーストワールド(人間界)出身の高校生、ブルームは魔法の力を見出され、イギリスの魔法学校〈アルフィア〉に入学する。

彼女は母親と反りが合わず、怒りに任せて魔法を使い寝室で就寝中だった両親を炎で襲って火傷を負わせてしまい、自分の力に怯えていたところをアルフィアの校長、ファーラに保護され、ようやく自分が火の妖精だと知ったばかりだった。入学してまもなく、自分はチェンジリング(取りかえ子)だと知ったブルームは、自分の出自について秘匿し嘘をつく校長や学校に対して不信感を抱きつつ、ルームメイトたちの協力を得ながら生い立ちを調べ始める。

それと同時に16年ぶりにバーンドワン(burned one, 焼かれた者)という怪物による襲撃が始まり、アザ―ワールド(The other World, もう一つの世界、妖精界のこと)が再び脅威に晒される。

そして、その陰でブルームの出自も関わっている16年前のある事件が暴かれていく。

 

 

キャラクターの名前の意味

『ウィンクス・サーガ』のキャラクターは、原作の位置づけにある『ウィンクス・クラブ』がイタリアのアニメということもあり、イタリア語由来の名前が多い。少し見てみよう。

ブルーム〈Bloom〉:英語、ラテン語で「花が咲く」

テラ〈Terra〉:イタリア語で「大地」 ラテン語由来で英語にもMediterranean Sea(med=中央、terra=大地、大地の真ん中の海で「地中海」), terrestrial(「地上」)などの単語で残っている

ミュサ〈Musa〉:イタリア語で「(音楽や文芸を司る)女神」

ステラ〈Stella〉:イタリア語で「光」

ルナ女王〈Luna〉:イタリア語、ラテン語で「月」 lunaという言葉はlunaticのように「イカれた」「狂った」などの意味に派生する。ステラの毒親で怒りなどネガティブな感情を魔法の原動力にする女王の今後を暗示しているのか。

ブルームのもう一人のルームメイトのアイーシャ(Aisha)はイタリア語由来ではなかった。アイーシャムハンマドの最も若い妻・アイーシャに由来するアラブ圏でポピュラーな名前で、アルフィアの校長、ファーラ(Farah)もアラビア語由来の名前だ。物語では登場しないキャラクターのバックグラウンドが反映されているようでもあり、調べてみると面白い。

 

 

感想

子供らしい無鉄砲に身に覚えアリ

手練れの戦士や妖精ですら倒すバーンドワン相手に、親や先生にバレたら怒られるなんて理由からブルームたちが独力で挑んで指輪を取り返そうとするなど、子供らしい無鉄砲さや、大人にいちいち頼らなくてもできるという謎の自信などに身に覚えがあって共感性羞恥を感じてしまった。あの、大人に報連相するなんて負け、大人が思うほど子供じゃないと本気で信じているあの感じ、もはや懐かしい。

 

ロザリンドの「強さ」とは

シーズン1で描かれた『ウィンクス・サーガ』世界での「強さ」は魔力でも魔法でも、武術でもない。情報操作と人心掌握術こそが「強さ」だ。ロザリンドの強さは、魔法の使い手としての強さもトップクラスだが、何よりも相手の見たいもの、知りたいもの、信じたいものを読み取って与えることで相手を操ることにある。ブルームもビアトリスもそれで彼女にいいように操られた。

ブルームがロザリンドに操られたのは、ロザリンドが信頼感も不信感も煽るのが上手かったからだ。彼女の「強さ」は他者を都合よく煽動するスキルの高さだ。それは魔法ではない。『ウィンクス・サーガ』は魔法の世界を舞台にしたファンタジーでありながら、魔法ではない力によって「強さ」が左右され、そのスキルが高い者が世界のトップに君臨する世界になっている。

ロザリンドがマインドの妖精だというのもあるが、信じたいものを信じてしまう人間の性質への理解とそこに漬け込み、利用するスキルは魔法ではない。ロザリンドの強さはそれだけに留まらない。メンタルが強靭な点だ。マインドの妖精はミュサのように、常に周囲の心の機微を感じ取ってしまい、特に死に際の葛藤などはトラウマレベルで魔法を使う側もダメージを負う。攻撃した相手の精神的苦痛や痛みを感じながらも虐殺を遂行したロザリンドのメンタルの強さは尋常ではない。

信じたいものを信じてしまう人間の脆さや無防備さ、危うさを熟知しているのがロザリンドで、それを過小評価というか、ロザリンドがそれに長けていると知りながらも警戒が十分でないのがファーラで、それに無自覚なのがビアトリスとブルームといったところか。

情報操作やデマによって他者を煽動する行為は現実でも起こっている。昨年のアメリカ大統領選の結果に対するトランプ前大統領によるバイデン現大統領へのデマや陰謀論は、最終的に信奉者による議会への襲撃まで招いた。信じたいものを信じさせてくれる人に疑いを持たない無防備さの危険性をまざまざと見せつけられたばかりで、このことを考えずにはいられなかった。

 

 

性差の日本史訪問記:「日本史」の日陰から

女性史が「企画」される意味を考える

ジェンダー〈性差〉の日本史』と銘打たれ、「女性史」ではなくあくまでも「男女の」性役割の歴史の企画展となっているが、その内容のほとんどは埋もれていた女性リーダーや女性家長、社会における女性の待遇と差別に言及するものである。それが「企画」されるということは、翻って学校で習ういわゆる「日本史」は男性中心の、男性の歴史であることを如実に示している。常設展には女性は登場させていないから「企画」として成立してしまう。つまり、この『ジェンダーの日本史』展は「日本史」の日陰にスポットライトをあてた企画だ。ようやく日の目を見たと言える。

受験生時代に日本史の予備校講師が、"history"は"his story"だと言っていた。その講師は「歴史」とは歴史的事実を組み合わせで構成されたノンフィクションに近い物語であり、編纂者つまり時の権力者によって物語は表情を変えるという意味だった。ジェンダーの日本史展をふまえると、"his story"はまさに「"彼"の物語」であって、"her story"にも"their stories"にも今のところなり得ていない。女性への社会的な抑圧と排除の歴史がテーマに掲げられた企画展の新規性が際立つうちは、女性差別と排除の歴史が社会に広く浸透しておらず、多くの博物館の常設展にもその視点が欠けている証左だ。(歴博では常設展のリニューアルに伴い、マイノリティの歴史につての展示を充実させ、ジェンダー研究を進めてきた。)

 

 

ジェンダーは「性差」なのか

ジェンダー〈性差〉の日本史』のジェンダーに「性差」があてられている。しかし企画の内容的に「性差」より性規範が適当ではないだろうか。性差とは、「男性の平均身長は女性のそれよりも高い」のように客観的なデータで示される差異のことである。一方で性規範とは「女は家事をすべき」「男は泣くな」などの性別役割分業や、べき論で語られる性別を理由にした社会的に創出された規範のことだ。展示の内容は社会の変遷とともに成立、変容していった性規範や社会で作られていった性差別の歴史を追ったものであり、それは性差ではく性規範だ。

性差の定義と展示内容が食い違うだけでなく、ジェンダーと性差も含まれる意味が矛盾しているからだ。ジェンダーとは文化的社会的な性のことで、身体的生物的な性をセックスと言う。性差は身体的な差異に基づくためジェンダーよりセックスの文脈で使われる言葉であり、文脈が全く噛み合っていない。

そもそも、性差も性規範もジェンダー論を学ぶときに入門レベルで必ず習う専門用語と考え方だ。しかし、「性差」のように字面から何となく意味が推測できてしまう言葉にさらに何となく意味を知っている気がするジェンダーという言葉をあててしまうとミスリーディングを招くだけである。何となく「性差」の意味が分かった気になって学ぶ機会が損なわれていないだろうか。「性差」という言葉のわかりやすく目を引く点が今回の企画展のタイトルに採用された主要な理由の一つであることは推測に難くない。それだけに安直過ぎたのではないだろうか。「理解しやすさ」に大幅に振り切る傾向はポピュリズム的だ。博物館の企画展で言葉のキャッチ―さ、安直なわかりやすさにこだわる必要はない。さらに、ジェンダーも性差も学術用語だ。女性差別と排除を扱いながら、それを学問として体系化し研究し、啓蒙してきたジェンダー論への裏切りではないだろうか。

 

 

女性の客体化の歴史

広告やPRで炎上する企業が後を絶たない。タカラトミーやアツギが記憶に新しい(2020年11月5日現在)。共通するのは女性の客体化とその消費だ。(私は問題の本質は客体化だけでなく、女性からの抗議があがることを想定せず、もしくは透明化して向き合わない姿勢は「モノ言う女」の拒絶であり、紛れもないミソジニーの発露であることも重大な問題だと考えている。)これらは性的客体化であることが多いのも火に油を注いでいる。この女性の客体化、モノ扱いは今に始まったことではないとある展示から判明した。

1825年すでに職人の女性を「花容(はなかたち)」と呼び彼女たちを鑑賞する画集『花容女職人鑑(はなかたちおんなしょくにんかがみ)』が出版されていた。しかも、中世では性別で区別はなかった職人も、時代が進むにつれて女性の手工業職人は描かれなくなり、遊女や夜鷹など性的な職業に限定されていった。近世には男性の職人を「職人」、女性の職人を「女職人」と呼び分け、「女職人」を「職人」と対比して二流扱いしている。

これは過去のものではなく現代にも通じている。例えば、女性にだけ「美人〇〇」「美しすぎる××」の冠詞がつく。それが社会的地位のあるプロフェッショナルな職業だとしてもだ。男性はプロフェッショナルで理知的な側面に焦点があてられる一方で、女性は職務や能力とは関係のない容姿ばかり注目される。ただでさえ、女性というだけで化粧して髪の毛の先からつま先まで手入れが行き届いていないと「怠慢」と見なされる。

ほかに有名な例では、カーテンで受験者が見えない状態でオーケストラの入団試験を行ったら既存メンバーは男性が多数にも関わらず、合格者の大半が女性になったというものがある。演奏ではなく演奏者の生まれ持った性別で演奏の良し悪しを判断することが常態化していたことを示している。差別とは性別、国籍、民族、人種など選ぶことのできない生まれ持った属性を根拠に不当な扱いや中傷をすることであり、性別を理由に能力を決めつけることはド直球の差別だとわかるはずだ。男性は男性というだけで下駄を履かせてもらえる性差別が江戸時代から存在していたことには戦慄を覚える。300年以上差別が改善されていないことに戦慄を覚える。

一つ気になるのが、この展示をみて他の人は何を考えたのだろうか。この画集を知ってこれが現代にも脈々と受け継がれている女性差別だと捉えた人はどれほどいただろうか。展示を見て何を感じたか考えたかを強制するのは言語道断であるが、限られた展示スペースでこれが選ばれた意味をくみ取るにはやはり、性差別の現状や性規範の押し付けによる抑圧を知識として、解決されるべき社会問題として理解がないと難しいのではないだろうか。絵画の展覧会に行っても、その画家や生きた時代や文化を知らないと「きれいだな」ぐらいしか感想が述べられないのと同じだ。

 

 

「女性活躍」と「女性頑張れ」

もう一つ戦慄したのは、戦後に社会への女性参画を促すポスターが「女性頑張れ」を掲げていたことだ。昨今、政策としてもよく耳にしていた「女性活躍」には「女性が頑張れ」までがセットだ。これに違和感を抱かない人は実際多い。しかし、「頑張る」べきは女性ではないはずだ。男性優位社会では女性は十二分に頑張っても男性と同等に評価されることはない。入試での女性差別を例にすると、男性の合格者よりはるかに高い点数を取っても女性というだけで不当に過小評価される。つまり、「頑張る」べきは女性ではなく男性優位社会で女性排除を止められない男性だ。女性の「頑張り」が性別を理由に過小評価されない社会を作る「頑張り」を怠っておきながら、まるで女性が「頑張って」いないから女性の社会参画や活躍が進まないと女性の自己責任にしようとする姿勢こそ、「女性活躍」を阻んでいるといい加減気付いてくれ。

このポスターは1949年のものだ。つまり、70年以上経ちながら全く問題の本質が見えていないうえに、男性優位社会は変わっていないことをまざまざと突き付けている。歴史系の博物館で自分が生まれるずっと前の時代の展示で、現代社会に連なる自分が当事者の差別を突き付けられる絶望感は一塩だ。

 

 

「日本史」の日陰はどこまで広がっているか

学校で習う「日本史」は、教える側が教えたい筋書きにそれに沿った歴史的事実を無数に存在する中から選んで肉付けして作られた「物語」だ。ここでの「教える側」とは単に教師を指すのではない。国家のことだ。国が教えたい、裏返すと国民に知ってほしくないものを覆い隠した歴史とは、「日本列島は単一民族によって古くから治められてきた世界に類のない美しい国万世一系天皇バンザイ」のことだ。私は大学受験で日本史を選択しており、大学に入って受験勉強を活かしてラクできると目論んで受講した日本中世史の授業で、受験の日本史とはまるで異なる日本像が浮かび上がって度肝を抜き、もう二度と日本史には自信があるだなんてナイーブなことは言うまいと誓ったことがある。(中世の列島史で「日本史」「日本像」ということ自体が妥当と思わない。)日本の中世は国風文化が栄え、武士が台頭し天下を取り合い鎖国へ向かう「日本的な要素が煮詰まる」歴史が先行するが、授業の日本中世史にはグローバルで多民族な海洋交易国家としての日本列島があった。誠意を持って書かれた教科書の「日本史」を否定する気はない(日本の加害の歴史を否定する歴史修正主義に基づいた教科書はもちろん除く)ものの、グローバル海洋国家もまた列島史の重要な一側面だ。歴史は見たいもの信じたいものだけを見せてくれる時がある。権力が示す「日本史」だけを信奉するのは偏狭で頑迷で何よりとても危険だ。翻って、国家が教えたい「歴史」からは女性だけではなく、先住民や在日外国人、被差別者つまりマイノリティが周縁化され排除されている。歴史を考える時、この視点を絶対に忘れてはいけない。

しかし残念ながら「日本史」の日陰に追いやられたままだ。(この点については、記事『本土の和人、ウポポイへ行く』ですでに述べた。)日陰どころか闇に葬られているに近い。なぜなら、歴史修正主義が幅を利かせている時代だからだ。今回の企画展では女性の被差別史が日の目を見たが、今後は先住民族をはじめとする社会的マイノリティの排除の歴史やマジョリティによる加害の歴史に焦点をあてなければならない。歴史修正主義が台頭する現在だからこそ必要であるにも関わらず、修正主義とその信奉者がそれを阻むジレンマが既に陥っている。加害の歴史から目をそらしてはいけない。それと向き合うことは自虐ではない。歴史に対する最大の敬意だ。

この現実に対してささやかな希望を見出すこともできたことは言及に値する。『ジェンダー〈性差〉の日本史』図録の最初のページの「ごあいさつ」でこの点について触れられていることだ。国立博物館の企画展示の図録の冒頭でマイノリティやジェンダーの視点に言及されている。歴史修正と差別、排除の時代においてマイノリティとその排除の歴史に光をあてる作業が行われてきたことを希望の灯にして、それを絶やさぬよう学びことあるごとに、ことなくても主張し続けていく。