世界拾遺記

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"日本人"よ、『熱源』を読んでくれ

とんでもない小説と出会ってしまった。

2020年1月発表の第162回直木賞を受賞した川越宗一氏の歴史小説『熱源』は、明治から第2次世界大戦終戦までの北海道と樺太で、日本とロシア、2つの帝国に翻弄されすり潰されそうになりながら生き抜いた実在の人物たちを中心にした物語だ。

実在の人物や歴史という点と点を巧みにダイナミックにつなぎ合わせた壮大な歴史小説はこの世にごまんとあるが、帝国主義植民地主義、民族差別、文化人類学などに基づく問題提起を網羅し、登場人物の言動一つ一つに織り込み、読者に否応なくそれら諸問題と対峙させるよう仕組んだ秀逸さにおいて右に出るものはいないのではないだろうか。さらに、日本がそこの歴史と人々を「日本史」から消し去った樺太が物語の舞台のメインとしてフォーカスされていることも、日本が排除した過去に目を向けさせるようにできている。

パブリックな政治の場でも市井でもヘイトが放置され、市民権を得てしまっているこの日本社会に対し、マジョリティである大和系日本人(和人)が向き合うことを拒み続けてきた加害の歴史、負の歴史、「日本史」から排除した歴史を突き付けるこの物語は一石どころか、巨岩を日本社会に投じていると言えよう。直木賞の選考委員は小説としての巧みさだけでなく、作者がこの小説に込めた意図を最大限活かすために影響力のある賞に選んだと確信している。

しかし、『熱源』を植民地主義や民族差別問題の文脈で読み解くには前提となる知識が必要であるにも関わらず、現代の教育からはそれらの視点は国民からは巧妙に隠され排除されてきた。視力0.1で見えるぼやけた世界をあたりまえだと刷り込まれ、めがねで視力を矯正できることすら知らない状態では、この物語の秀逸さを知ることはできない。ということで、私自身まだ勉強途中ではあるが、視力を0.8くらいには矯正できる「めがね」を共有していきたい。

 

 

序章

樺太地上戦

第2次世界大戦の「終戦」後に樺太への上陸と攻撃にとりかかるソ連軍の描写から物語は始まる。第2次世界大戦での日本における地上戦は沖縄だけと教えられるが、かつて日本領だった旧植民地を含めれば、樺太満州でも地上戦が展開されている。

沖縄が文字通り本土防衛のための捨て石にされ多くの犠牲者を出したように、戦争で真っ先に犠牲になったのは辺境地域である一方で、中央政府や本土のために捨て駒として消費された犠牲が歴史の教科書から真っ先に排除されたのも辺境地域である。沖縄地上戦に戦力の補充として投入されたのは北海道出身者からなる部隊だったことはほとんど知られていない。

「中央」と「辺境」という言葉を意識的に使用したが、これは近代主権国家をとらえる上で外せない視点だ。「中央」ができることでそれ以外が周縁化され「辺境」が生まれる。この周縁化のプロセスは国家だけでなく、例えば、男性中心社会で周縁化されてきた女性、日本社会のマジョリティである大和系日本人に対し周縁化されてきた先住民や外国人というように、あらゆるマジョリティ、マイノリティの対立軸として応用される。

樺太地上戦については、終章の部分でくわしく触れるとする。

 

 

第一章

「あ、犬か」

キサラスイを巡って殴り合っていたヤヨマネクフとシシラトカに和人の子供が「"あ、犬"」と表現し喧嘩を売る場面がある。この言葉は、作者による創作ではなく実在するアイヌ差別用語だ。1977年に起きた北大差別講義事件で北海道経済史を担当していた当時の北大経済学部教授・林善茂が本人曰く「ジョーク」としてアイヌと犬を侮蔑を込めてもじった醜悪な差別発言を「講義」している。以下、林善茂が「講義」で口にした言葉を一部引用する。

 

 アイヌは、別にイヌとは何の関係もありません。日本人のイヌとは。ところがこれらの番犬どもがやってきますと、アイヌだ、人間とイヌの合いの子なのであるという扱いをしたわけです。・・・日本人とイヌとの間に出来たのがアイヌだ、だから私たちは駆使されてもしようがないんだと、実際に言っております。 植木哲也『植民学の記憶ーアイヌ差別と学問の責任』p.25

 

この北大教授は北海道出身で終戦直後ひっそりと廃止になった植民学(廃止後は植民地経済学なら経済学へ、というように何食わぬ顔で他の学問領域へと身を隠していった)に籍を置き、あろうことかアイヌ農業の研究者で、彼の師にあたる高倉新一郎もアイヌ研究で飯を食うアイヌ差別主義者だった。彼らは北海道設置100周年記念行事の実行委員など北海道行政に専門家として長く関わってきてもいた。

『熱源』巻末にあげられた主要参考文献に上記で引用した植木氏の著作があげられており、作者はおそらくこのセリフは北大差別講義事件から着想を得たのではないだろうか。

差別講義を行った林と彼の師事した高倉が北海道出身だったように、アイヌへのヘイトスピーチを行ったり、本を出版する人間には北海道出身者が一定数いる。これは個人的な体験だが、北海道で利用した民宿のオーナーが反知性主義極右レイシストだったことがある。

彼は北海道開拓民の子孫でとにかくアイヌを否定し、経済的に成功したアイヌが気に食わないようだった。つまり、先祖伝来の土地で暮らすことがアイヌにとっては差別主義者と隣り合わせで生きねばならないことを意味している。ヤヨマネクフ、シシラトカ、太郎治がヘイトを投げつけられたあの状況は現実が反映されている。

 

 

天然痘コレラの流行

ヤヨマネクフらが北海道で住んでいた対雁村では天然痘コレラが大流行し、キサラスイもそれで亡くなった。これは史実に基づいている。

1875年樺太千島交換条約で日露雑居が定められていた樺太がロシア領に、千島列島が日本領となった。「樺太千島交換条約附録」第4条で、この地域に住む「土人」には3年以内に日本かロシアどちらかの国籍を選択できると認められているはずだったが、同年9月から10月に日本での居住を希望する樺太アイヌ108戸、841人(総人口の約1/3)を、樺太を目視することのできる対岸の宗谷に移住させた。

さらに翌1876年に対雁に強制移住させた。対雁への移住は開拓使長官の黒田清隆の策で、狩猟と漁労を生業としてきた樺太アイヌを内陸の平野へ送り農業に従事させ「開拓」の労働力とする意図があった。人の住んでいなかった対雁をいちから切り開き、男性には春と秋の漁業の合間に農業、女性は製網に従事させ1876年から3年間の扶助で自立させようという無謀な目論見が開拓使にはあった。

しかし、1879年と1886年天然痘コレラの大流行で多数の樺太アイヌが亡くなり、日露戦争で北緯50度以南の樺太が日本領になると1906年までに大半の樺太アイヌ樺太に帰還した。キサラスイが亡くなった2回目の感染症の大流行では358人、人口の約4割が亡くなったと記録が残っている。

 

 

第二章

文明と文化進化論

この物語のキーワードの一つに「文明」があげられる。文脈から文明が何を指すのか推測することは難しくないので、ここでは文化進化論について取り上げる。物語全体の理解に関わる考え方だからだ。文化進化論とは1960年代まで文化人類学で用いられ、文化は野蛮、未開、文明の順に進化していくというものだ。これが西洋基準の偏見に満ちた尺度であることは言うまでもないが、文化進化論の有害さは植民地主義大義名分として使われてきた側面にある。西洋白人社会が文明であり、それ以外の未開で野蛮な非西洋有色人種社会が文明化するために我々文明社会が植民地統治する必要がある、というロジックで使用された。

第一章で「野蛮なアイヌを文明人たる日本人が世話してやってる」という台詞があるが、これが植民地主義のロジックだ。日本は敗戦で植民地をすべて手放したと思われがちだが、琉球処分と北海道の設置は植民地化だ。沖縄や北海道に対し本土、内地の呼び方があることからも中央ー辺境関係は明確であり、有事の際に真っ先に犠牲になるのは植民地たる辺境であることは現代も変わっていない。

 

 

第三章

「あんな野蛮な風習」:文化人類学と普遍人権論の気まずい関係

和人がアイヌ女性のする入墨をが「あんな野蛮な風習」と表現する場面がある。入墨を入れたチュフサンマに対しブロニスワフが言いそうになったが言わなかった言葉もこれで違いないだろう。確かに、現代では身体を改造する少数民族の習慣は非合理的で「野蛮」に映りがちだ。しかし、アイヌの習慣に限定してみてもトンコリや草皮衣、イナウは良くて入墨は「野蛮」だとなぜ線引きできるのだろうか。結局、「良い伝統」と「悪い伝統」に分別しているのは文化の担い手たちではなく非当事者のマジョリティだ。

文化人類学では、現在は文化進化論を改め、文化に優劣はないとする文化相対主義を採用している。ブロニスワフがウラジオストクで講演した内容は文化相対主義と一致する。だから彼はチュフサンマの入墨に対して、己のポリシーを貫き否定しなかった。

だが、文化相対主義は万能だろうか。どんな文化だろうと多様性として認めれば万事平和に収まる特効薬だろうか。

この場面には文化相対主義と普遍人権論の気まずい関係が凝縮された問題提起がなされている。

気まずい関係とは、文化に優劣はないとする文化相対主義と人権を至高とする普遍人権論の矛盾を指す。両者の共存は難しい。

では、どちらが相応しいかを検討してみると、文化相対主義的には入墨は文化の多様性として認められるべきだが、強烈な身体的苦痛を伴い婚姻する女性だけに課せられる家父長制的抑圧を示す文化は人権侵害とも言えるうえ、何でも多様性とするのは思考停止である。しかし、入墨は人権侵害だと指摘すると途端に「野蛮な文化を指導する文明人の我々」という植民地主義が浮かび上がってきてしまう。このように両者は気まずさをより深めていく。

ここで重要なのは、どちらがより卓越しているかを議論することではなく、両者のメリットとデメリットをよく理解し思考を放棄しないことと問題の当事者の判断を尊重することだ。作中でアイヌの他の文化要素ではなく入墨が取り上げられ、民族アイデンティティの再確認として入墨を彫ることを決めたアイヌ女性と、人権と文化相対主義で揺れる非アイヌの登場人物が描かれたことは、「野蛮」と「文明」や文化相対主義と普遍人権論の単純な二項対立では片づけられない思考の必要性を訴えかけている。

気まずい関係の話題で1つ確認しておきたいのが、相対主義や多様性といった響きの良い言葉を妄信し乱用することは、例えばアイヌを野蛮だとする文化進化論も思想の多様性の一つとして認めかねず、思考放棄にほかならないということだ。例示したロジックは差別主義者が差別やヘイトを正当化する際に用いている。文化相対主義や多様性は、文化進化論への反省からマイノリティの文化がマジョリティによって理不尽にジャッジされないよう守るためのロジックであり、それで差別を擁護するのは言葉の簒奪だ。これと似たような批判として、カール・ポパーによる寛容のパラドックスがある。寛容な社会は不寛容にも寛容であるべきと不寛容な者は求めるが、不寛容を認めてしまうと寛容な社会は不寛容にのっとられてしまう。一見矛盾しているようだが、寛容な社会を守るためには、寛容な社会は不寛容には不寛容でないとならない。

「気まずい関係」以外にもこのシーンは検討の余地がある。和人がアイヌ文化について「野蛮」とジャッジしている部分についてだ。マジョリティが「正しいマイノリティ」について定義しジャッジしたがるのは典型的な差別構造の1つであり、民族差別以外でも頻繁に起こっている。

第一章の部分で言及した北海道のネトウヨアイヌ差別主義者は、アイヌ文化やアイヌアイデンティティアイヌ語など本人は和人であるにもかかわらず、話の都合でアイヌは滅んでいたりアイヌの隣人がいたり、トンコリは他民族のパクリだとか、ウポポイ開館に向けて新しく作られたアイヌ語の語彙は認めないだとか、アイヌの何たるかをジャッジしていた。ツッコミどころしかない中で、あえて指摘するなら、雅楽の楽器の多くは大陸から伝わったものであるし、外国語を取り入れたりそれまで語彙になかった言葉を創って補うなど日本語では日常的に行われているように、マジョリティである和人がやる分にはいいがマイノリティには認めない理不尽な不寛容さがある。

そもそも、マイノリティのアイデンティティを持たない非当事者がなぜマイノリティのあり方や文化について定義ができると思っていることが既におこがましい。差別する側の属性にとって、される側を自らに都合のいい存在に抑圧するという差別の構造がこのジャッジに表れている。

日本政府が実際に行ったジャッジでは、1871年と1876年の2回に渡りアイヌ女性の入墨と男性の耳飾りを禁止し、2回目にいたっては「陋習」とまで言い切っている。衣服や装飾品、チセと呼ばれる家屋に居住することなどその他の習慣については禁止していないのは、寛容ではなくマジョリティによる一方的なジャッジだ。

このように、アイヌ女性が婚姻を期に習慣に則り入墨をいれた、という場面だが、エスニックアイデンティティ文化人類学、普遍人権論など様々な視点から何度でも検討できる多方面からの問題提起をしている価値のあるエピソードになっている。

 

理不尽の中で自分を守り、保つ力を与えるのが教育だ」:同化政策と教育

教育も『熱源』の物語全体に流れる通奏低音の一つだ。教育は同化政策の効果的な実践の場として機能してきた。授業は日本語で行われアイヌ文化は排除されていき、アイヌの文化や慣習の引継ぎがままならない環境に侵食されていっただけでなく、子供から親へと学校での同化政策が伝わる側面も兼ね備えていたのが学校だった。学校に通うヤヨマネクフがアイヌの生活を知るわけでも、かといって和人であるわけでもなく宙ぶらりんの気分だ、とアイデンティティの動揺を語っているがそれがまさしく同化政策の影響だった。

学校教育がアイヌ文化の担い手の減少や弱体化を促進した同化政策であることは揺るがない。これは和人によるアイヌへの迫害に触れようとしないウポポイの博物館すらキャプションで言及している。だから太郎治が学校の先生になりたいと言っているのが最初はアイヌ自身が同化政策の担い手になる皮肉さを感じずにはいられなかった。しかし、ブロニスワフと太郎治が学校を開きたいと言ったときに、学校=同化を強制される場と考えるヤヨマネクフに太郎治が発した「理不尽の中で自分を守り、保つ力を与えるのが教育だ」という言葉が光る。教育のあるべき姿が端的に表現されている。

これは明治時代の皇民化と同化を狙った教育だけに適用されるわけではない。現代の学校教育にもあてはまる言葉だ。にもかかわらず、理不尽に晒されている先住民、女性、貧困家庭出身者、障害者、LGBTなどマイノリティほど教育へのアクセスが阻まれていることに言及しておきたい。アイヌの例に限ると、アイヌの大学進学率は和人よりも低く、北海道アイヌ協会から奨学金を受給するとアイヌであることが知られるため受給を諦めたという報告もある。(北海道大学アイヌ・先住民研究センター『2009年 北海道アイヌ民族生活実態調査報告書』2010年3月発行)ウポポイの展示で許せなかったことに、学年一の秀才でありながらアイヌという出自を理由に教師から差別され進学が叶わず、料理人となりアイヌ料理の店を持った男性を差別の部分だけ抜かしてアイヌ料理人として伝統を引き継ぐアイヌとして美談にされていたことがある。マイノリティこそ理不尽から自分を守るために教育が不可欠でありながら、教育にたどり着けない矛盾と理不尽が放置されてきたのが現状だ。さらに新自由主義の煽りを受けて自己責任論の餌食にもなりやすい問題でもある。

ヤヨマネクフらが卒業した後の1901年に「旧土人児童教育規定」が定められ、学習内容は修身、国語、算術、体操、女子は裁縫、男子は農業で和人の学校にある地理、歴史、理科は除外され労働力としてすぐ機能するものだけが与え、教育を受ける機会が奪われていった。さらには、1916年に和人の学校は4年から6年に変更になったが、アイヌは4年のままでさらに和人との教育が差別化され排除されていった。

 

頭蓋骨の形が人種・民族の優劣を決める?:形質人類学

頭蓋骨の形には人種・民族に基づき形に特徴があり、それで優劣が決まるこのようなやりとりがある。人種・民族の身体的特徴が優劣を、未開と文明を分けるとし人体や人骨の調査をしていた形質人類学という学問がある。客観的な調査・研究というより、ある人種・民族を「未開」「野蛮」と決めつけ、その理由を身体的特徴に結果ありきで求めた学問だった。

小説中では頭蓋骨の形が出てくるが、アイヌに対して行われた身体検査だけでも脇のにおいや頭髪、体毛などをあげつらい、どれも侮蔑的な文脈でアイヌが如何に「未開人」であるかを説明するためにこじつけられている。身体的特徴を理由に差別することが非倫理的であることは言うまでもない。この人種・民族ごとに固有とされた身体的特徴は、現在では各個人間の差異程度しかないものであり、民族を決定する要素にはなり得ないと文化人類学では定義されている。

例えば、ステレオタイプな日本人の表象として、ストレートな黒髪に細くつりあがった目、低い鼻、薄い唇で描かれることがある。しかし日本人個人個人を比較してみると、髪だけでも天然パーマや縮れ毛、くせ毛など様々だ。さらに言えば、アメリカ人を金髪碧眼の白人で描くことは人種差別だ。

論理的な側面から指摘するならば、例え人種・民族的に進呈的特徴が認められたとしても、それと文化進化論的な「未開」「文明」の分類に相関関係があったとしても、因果関係はなく、因果関係に結び付けるのは論理的にも誤った理解である。もっとも、文化進化論的な民族の優劣判断が間違ってはいるが。

戦前の形質人類学の罪で現代も解決していない問題に、大学による遺骨返還問題がある。形質人類学の研究のためにアイヌ琉球など先住民族の墓が無許可で暴かれ埋葬されていた遺骨が研究者らによって盗まれ、子孫や民族の代表者らからの謝罪と返還要求が現在もその大多数において実現していない。返還要求を無視する大学や保管状況すら把握していない大学もあり、アイヌ琉球双方とも訴訟を起こしている。

アイヌの遺骨盗掘問題に限ると、今年開館したウポポイに慰霊碑と身元が分からなくなってしまった遺骨の共同安置施設が併設されている。しかし、慰霊施設はウポポイのメイン会場から数km離れた場所にあり、パンフレットの地図に一言載っているだけでなんのための慰霊施設か、その経緯すら言及がない。なぜ「民族共生象徴空間」内に置くことはできなかったのだろうか。当事者と盗掘した大学とで返還も謝罪も何も解決しておらず、盗掘の違法性や遺骨を利用した形質人類学の差別ありきの研究の数々が周知されていない状態で、政府のアイヌ政策推進会議は「アイヌの人骨を象徴空間に集約し、研究に寄与する」として遺骨の研究目的での使用をやめようとしていない。マジョリティがマイノリティを都合よく管理する差別構造が温存されたままだ。そもそも、一か所に集約することはコタン(集落)ごとに慰霊するアイヌの伝統に反するとして、日本弁護士連合会に人権救済の申し立てがなされていたが結局覆らず、白老での共同施設での慰霊はマジョリティからの管理をマイノリティの手に戻すことすらかなわなかった証だ。

縄文人の墓の「発掘」と異なる点は、「未開」「野蛮」のレッテルを絶対なものにすべく、その結果ありきでの調査のために遺族が存命している人の墓が無許可で暴かれたことにある。和人の墓に対してそのような蛮行がなされてきただろうか。その非対称性を見れば、これが差別の何物でもないことは一目瞭然だ。

このように、形質人類学は露骨な人種差別の口実に転用されてきた。現在も、日本列島人(主な3つの民族、大和系、琉球アイヌ)のルーツを探るためのゲノム解析研究が進行中で、中間経過として、日本列島には縄文人が生活していたが大和系日本人は大陸から渡ってきた人々のDNAとほとんど置き換わっておりDNA上では韓国人に最も近く、縄文人のDNAをより多く残すのはアイヌ琉球人であると判明している。しかし、この日本人のDNAにまつわる研究はアイヌ民族否定論の科学的根拠として長年転用されてきた。民族はアイデンティティによって決まることを否定しDNAに民族の根拠を求めることはナンセンスでありながら(国連は民族の根拠をDNAに求めることを否定している)、差別の根拠としてもてはやすことが止まない。「優秀なアーリア人」を根拠に「劣等種ユダヤ人」の殲滅を実行した負の歴史を共有しながら、現在もDNAや「人種」が差別の正当性の担保にされている。

 

 

第五章

自らの出自を疎み始めるアイヌ

アイヌ」が侮辱を含む言葉になり果ててしまったために、「アイヌ」の呼称を止めるよう嘆願があったのは事実である。だが、アイヌを侮蔑語に貶めたのはアイヌではなく、和人である。自らのアイデンティティを否定せざるを得ない理不尽の結果だ。

これをアイヌ差別のロジックに利用する差別主義者は多い。しかし、植民地主義の時代の被支配者の言葉を額面通りに受け取り理解するのは、その発言に至った歴史的背景を無視し、透明化する行為に他ならない。例えば、沖縄地上戦でアメリカ軍の捕虜になって生き恥晒すくらいなら死んだ方がまし、と集団自決していった人々を、そんな思考にはまって死を選んだ本人の責任、死にたくて死んだ人の慰霊に税金をいちいち使うなと言う人はまずいない。全体主義と戦争の狂気と武士道の強制という歴史的背景を汲んで、自決以外の選択肢が彼らにはなかったと理解しているから戦争の悲惨さと残虐性を象徴する事件として教科書に載り続けている。その理性と知性による手続きをなぜ「日本人」には適用できて、アイヌにはできないのだろうか。差別とはどこまでも理性の放棄であることがよく示されている。

 

ただそこで生きる

我々マジョリティは、先住民や少数民族にばかり「伝統的な生活」を求め、現代に馴染んだ生活を送っていると勝手にがっかりしたり、その民族は衰退した、滅亡したと一方的にジャッジしてはいないだろうか。自分たちは「伝統的な生活」などほとんど捨て去ったにもかかわらず。畳のある家に住み着物を日常的に着て毎食米を食う日本人なんてもうほとんどいない。それでも日本人は衰亡した、伝統が滅んだとは見なされない一方で、アイヌには民族衣装を着て伝統的な暮らしと生業が達成されていないと勝手に滅んだものと扱う。各人におけるアイデンティティの問題であり、マジョリティの許可に依存するものではないはずだ。

この非対称性は、マジョリティによるマイノリティの主体性の否定によって支えられている。

 

 

第六章

「ゴシプシェィ!」

物語は第2次世界大戦末期の樺太へのソ連軍の侵攻で締めくくられる。そこでオロッコ(ウイルタ)出身で諜報部隊に所属する青年が登場する。彼が発した「ゴシプシェイ」はオロッコの言葉で「こんちくしょう」という意味だ。第二次世界大戦だけでも、北海道出身の兵士は日本軍が玉砕していった戦地で大量に亡くなっていった。そしてさらなる犠牲となったのは周縁化された先住民族あることには変わりなかった。源田のような諜報機関勤務で北緯50度線の国境地帯に召集され配属された先住民族出身兵士は実在する。

土人教育所」で天皇を崇める皇民化教育を受け召集令状が出され出征した先住民出身者は和人同様、ことごとく帰らなかった。戦後の日本兵の待遇というとシベリア抑留が有名だが、樺太先住民族のオロッコやギリヤーク(ニブフ)から招集された兵士もソ連に捕らえられ拷問に耐え戦犯としてシベリア送りにされている。シベリアから生きて帰還したオロッコの元兵士が1977年に全国教育研究集会でした講演で彼が、死んでいった同胞への哀悼と政府、天皇の戦争責任を問いただすのに繰り返し発した言葉が「ゴシプシェィ」だった。この訴えは国会に届けられ、未払いのまま放置されている少数民族出身軍人への軍人恩給支給について政府は問いただされた。しかし、政府は陸軍諜報員の招集は非公式のものであり政府による公的な救済をするには値しないと切り捨てた。

源田のモデルでほぼ確定なのが田中了が取材したゲンダーヌという名のオロッコの元日本軍兵士だ。巻末の主要参考文献に『ゲンダーヌ ある北方少数民族のドラマ』があげられている。もう一冊彼を取り上げた本に、同氏の『サハリン北緯50度線ー続・ゲンダーヌ』がある。

「ゴシプシェィ」の意味を知ったのもこの本からだ。作者は、第2次世界大戦を描くのに、日本人を中心にしたのではなく、ゲンダーヌを選んだ。「中央」によって使い捨てにされ歴史からも葬られた北方先住民族の存在と、うやむやにされ和人にとってタブーとなった天皇の戦争責任を白日の下に引きずり出すために。ゲンダーヌの本を読んでまず、元日本臣民らが天皇の戦争責任によく言及していたことに違和感を感じた。ネガティブな意味ではなく、私の知る第2次世界大戦には天皇の戦争責任はほとんど登場しないからだった。出てくるときと言えば、戦後にGHQ天皇の戦争責任より、国民統合のために天皇制の温存を決めたというぐらいで、天皇の戦争責任それ自体が忽然と姿を消している。教えられた記憶がそもそもなかった。

恥を忍んで告白すると、樺太先住民が帝国陸軍諜報員として招集され従軍していたことも、彼らは戦後に日本政府から見捨てられ存在すら公に認められず救済もなかったとは全く何一つ知らなかった。『熱源』を読んで参考資料を探しに図書館を歩いていた時に偶然見つけて読むまで全く知らなかった。大学受験の関係でそこらの人間よりはるかに「日本史」について勉強したはずなのに。その「日本史」がいかにマジョリティの物語であるかを改めて痛感する。シベリア抑留も「日本人」が受けた戦争の理不尽、日本国民こそ戦争の被害者とする戦後の歴史認識を補強するある種のプロパガンダとしてしか日本では扱われていない。

 

 

最後に

この物語が最初から最後まで日本の歴史認識を問いただし、加害の歴史と排除してきた辺境の歴史と向き合わせる意図が練りこまれていることにもはや異論はないはずだ。それを歴史修正主義が公然とまかり通り、加害の歴史を改ざんし被害者意識だけを肥大させ、辺境の歴史には蓋をしてなかったことにし単一民族神話を強化する現在の日本に突き付けたことに感動せずにはいられなかった。不寛容に寛容すぎるこの社会には絶望してばかりだったがまだ希望はある、ここにあると思えてくる。この希望こそ「熱源」だ。理不尽に翻弄されながらも「熱源」を見出し生きていく人々の物語を通して、この理不尽だらけの社会に生きる人々に「熱」を灯していく。これこそこの物語の真の力ではないだろうか。