世界拾遺記

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アニメ『進撃の巨人』感想①:マーレ編全体を覆う「居心地の悪さ」

ネカフェや岩盤浴場でちょこちょこ読み進めてきた『進撃の巨人』のあにめファイナルシーズンの放送が始まった。昨シーズンで巨人を駆逐し、エレンら壁内人類の「敵」は、巨人から自分たち以外の世界となったところからファイナルシーズンは始まる。

原作漫画を予習済みのため、いまさらストーリーに驚きはしないが何度目だろうと『進撃』の世界観に圧倒されないときなどない。ここでは、とりあえず現在アニメ放送中のマーレ編での感想を書いていきたい。

「居心地の悪さ」と題したが、作品への批判では決してない。批判の余地などほとんどない作品だと思っている。この「居心地の悪さ」は我々の現実世界にも共通するものであり、むしろその側面を抉り出しているように思えてこの作品には圧倒されっぱなしだ、という内容になっている。

 

 

オメラスに居座り続ける人々

 『ゲド戦記』で有名なル=グウィンの作品に『オメラスから歩み去る人々』という短編がある。地下に少年が劣悪な環境で監禁されているおかげで平和と幸福が維持されているオメラスでは、住人は彼のことを知りながら知らぬふりをして地上で幸福な生活を享受する。

マーレ編は、いきなりオメラスの歪さを見せつけているようで「居心地が悪い」のだ。エルディア人をスケープゴートにすることで成り立っている世界が発する、スルーもできるがそうすることで一層増す類の居心地の悪さにいたたまれない気持ちにさせられる。マーレが100年にわたる戦争加害から目を背けていることと、戦争責任を誰も取っていないことが進撃のマーレ編全体に漂う違和感というか居心地の悪さ、気持ちの悪さの正体ではないだろうか。

 

 

パラディ島に依存する世界

進撃の世界では、現在生きているエルディア人に過去からのすべての戦争責任が押し付けられている。かつてのエルディア帝国による他国への侵略やジェノサイドも、ここ100年マーレが戦争を繰り返してきたのもすべて現在生きているエルディア人の責任にすることで世界は回っている。

エルディア人はこの世界のオメラス地下の少年だ。特にパラディ島は、世界の不都合の不法投棄場所にされ、憎悪の掃き溜めの島が倒壊寸前のジェンガを支える最後の1ピースのように、世界を保つための必要不可欠な部品に勝手にされている。なんて不健全な世界だろう。

 

 

宙に浮いた戦争責任

世界の秩序をパラディ島に依存するシステムは、エルディア帝国の戦争加害に戦争を主導した帝国の誰も責任を取らなかったことに端を発しているのではないだろうか。

カール・フリッツをして虐げられたマーレに心を痛め戦争を終結させた平和主義者と認識することもできるが、島に築いた箱庭ですべてを放り投げ平和を愛する王としてままごとに興じることを選んだとも言える。これも歴史認識問題の一端だ。カール・フリッツを平和主義と称えたヴィリー・タイバーには、フリッツ王を英雄に見せたい動機があった。(そもそも、あの演説の狙いの一つはパラディ島攻撃中に背後から撃たれないようにするためであることは確実だ。)

彼は平和を願って内戦を終わらせたかもしれないが、達成できたのは壁内の一部の人間にとっての100年の平和だけだった。内戦を終わらせたとき、せめてタイバー家ポジションにフリッツ王家がついていればエルディア人は「悪魔」にはならず、大陸に平和をもたらせたかもしれないと考えずにはいられない。

 

 

エルディア人に生まれた罪

マーレがエルディア帝国で長年虐げられてきたのは事実だろう。それを否定する気はない。ただ、エルディア帝国が崩壊してから100年経ち、今のマーレ人で帝国時代に生まれはほぼいないはずだ。出生ガチャでマーレ人を引いただけの人々が、出生ガチャでエルディア人を引いてしまっただけの人を悪魔と罵っている。自分ではどうしようもできない出生が宙に浮いた戦争責任を押し付けられ世界の理不尽を一身に受けさせる理由になっていいはずがないのに、それがまかり通っている。出生による理不尽を指す市民権ペナルティがあまりにもキツすぎる。

まさにエルディア人に生まれた罪だ。『ゲームオブスローンズ』でティリオンが実の父に濡れ衣とわかってて死刑判決を言い渡された裁判での演説を思い出してしまう。「子の身体に生まれた罪で裁かれてきた」というティリオンの言葉がエルディア人にも当てはまる。

 

 

現実が反映された地獄の数々

旧エルディア帝国の戦争責任だけでなく、マーレの戦争責任も現在生きているエルディア人に押し付けられている。マーレの国家としてはずせないパーツの一つが被差別民たるエルディア人になっている。この構図はかつての日本にもあった(現在進行形でその因習は引き継がれている。)士農工商の下の被差別階級がそれだ。身分は生まれによって決まったため、出生ガチャによる理不尽である点も同じだ。作者が作中で生み出す地獄が強烈なのは、現実の地獄への解像度が高いからなのはもう何回でも指摘したい。パラディ島がスケープゴートになっているのも、9.11をきっかけとしたイスラモフォビアや最近では嫌中の高まりがあてはまる。

 

 

視聴者である自分はマーレかエルディアか

 マーレ編で感じる居心地の悪さは加害の責任をすべてエルディア人に理不尽に押し付けられていることだけではない。その理不尽を誰もが指摘しないことにある。

エルディア人やパラディ島をオメラスの地下の少年にしなくても済む世界を目指すべきだ、とはならない。こんなシステムおかしいだろと言っているのは(視聴している/読んでいる)自分だけで、自分が間違っているから他に誰もそう考える人がいないのかと、多数決の勢いに気圧されてしまう。

まるで試されているかのような落ち着かない気分になってくる。アイヒマンになるかシンドラーになるかを。あの全体主義の中で、自分はシンドラーになれるのか自信がないことの表れでもある。

 

善悪の判断を試されているだけではなく、自分の民族アイデンティティは住んでいる国においてマジョリティだから立場的にはマーレであることも「居心地の悪さ」に起因している。マーレは自分を写している。自分もオメラスの地上の住人だ。

民族的マジョリティとして享受している社会的な特権を意識することは日常生活ではまず起こらない。『進撃』は、その無自覚な暴力性を強烈に眼前につけてくるので苦しくなる。

苦しくて不快で目をそらしたくなるが、自分はやりたくない仕事を外国人に押し付け、マイノリティから抗議の言葉を奪う「マーレ人」である現状を忘れてはいけない。これは自戒だ。これぐらいしかできない。