世界拾遺記

映画ドラマ漫画の感想、博物館訪問記、だいたい同じことを言っている

アニメ『進撃の巨人』感想③:血統で定義される「民族」エルディア人

他人にアイデンティティの決定権を握られる理不尽

マーレ編でのエルディア人隔離政策には、その人権侵害っぷりにばかり目が行っていて前述した「居心地の悪さ」にばかり気を取られていたが、もう一つの「違和感」をようやく認識した。

 

across2logos.hatenablog.com

 

エルディア人の民族アイデンティティは、自分で自分自身を何者か認識しているかではなく、血統によってのみ決まっている。本来、民族アイデンティティは血統ではなく自分で自分を何者だと考えるか自分自身で決定するものであり、他人や血統によって決められるものでななければ、たった一つにも決まらない。

しかし『進撃』の世界では血液検査の結果、先祖にエルディア人が一人でもいればエルディア人と「他人によって」決められてしまう。

例えば、六代前の先祖に一人ロシア人がいるとわかった途端に、両親が日本人で日本うまれ日本育ちで日本語しか話せないのにロシア人と決めつけられ、日本国籍を剥奪されて政府から認められた在留資格がない限り、故郷に居場所がなくなってしまう。これが『進撃』世界でのエルディア人の定義だ。(例でロシア人をあげたのは、私自身にどうやら六代前の先祖にロシア人がいるらしいからであって、それ以外に他意はない。)

血統で民族アイデンティティを他人が決めることがいかに理不尽な暴力かがわかるだろう。民族に限らずアイデンティティを他者が決めつけることはあってはならない。

 

 

血統で決まる民族?:ユダヤ

エルディア人のモデルになっているのはユダヤ人であることは言うまでもない。ユダヤ第二次世界大戦後に建国されたイスラエルには、世界中に離散したユダヤ人にイスラエル市民権を与え帰還を促す帰還法で、ユダヤ人の母から生まれたもしくはユダヤ教のみを信仰する人をユダヤ人と定義している。さらに、ユダヤ人を先祖に持つ子孫はユダヤ人でなくともイスラエルの市民権が与えられる。

ユダヤ人の定義としてもう一つおさえておかなければならないのがナチスドイツでの定義だ。「帝国市民法」と「ドイツ人の血と名誉を守るための法律」の二つからなるニュルンベルク法と呼ばれるナチスが1935年に定めた法律があった。

ユダヤ人を従来の、ユダヤ教の実践やユダヤ文化のコミュニティへの所属などによって醸成されたユダヤ人のアイデンティティではなく、血統や出生によってユダヤ人が定義され、ナチスの人種政策のイデオロギーが反映された。

祖父母4人のうち、3人以上がユダヤ共同体出身の場合はニュルンベルク法によりユダヤ人と扱われ、ユダヤ共同体に生まれた祖父母を持つ人は人種的にユダヤ人と定義された。

自分では選ぶことも変えることもできない出生ガチャでユダヤ人の祖父母を持っただけで、自分はユダヤ人でないと思っていても社会や政府によって決めつけられ、公民権を奪われ、彼らを「二等市民」にしたのがニュルンベルク法だった。(ナチスの人種政策はユダヤ人だけでなく、ロマ(ジプシーとも呼ばれていた)、黒人、スラブ人にも及んだ。他にも障害者の安楽死社会主義者共産主義者、同性愛者も迫害された。)

この定義には、ユダヤ共同体とは関わりなく生きてきた自身をユダヤ人と思っていない(つまり、ユダヤ人のアイデンティティを持っていない)何千もの人々が含まれていた。なかには、キリスト教に改宗していたり、キリスト教徒の隣人と馴染むためにクリスマスなどキリスト教の祝日を祝う人々もいた。そんな人々が法律一つで急にアイデンティティを否定され、権利を奪われた。

エルディア人の隔離政策や人権剥奪が間違っているのは、モデルとしているナチスによる人種政策同様に不当だからだけではない。民族アイデンティティが出自によって決めつけられることがあってはならないからだ。

 

 

血統でのみ国籍が決まる国:日本

さて、日本人にとって民族アイデンティティや○○人(日本人やアメリカ人など)は血統と同一だと感じている人も多いのではないだろうか。

日本では日本国籍を持つ親から生まれた人にのみ日本国籍が与えられる血統主義のみを採用し、二重国籍を認めない世界でも稀な国になってしまった(褒めてない。)多くの国は、その国で生まれた人にも国籍を付与する出生主義と血統主義を併用している。

実は日本も国籍だけで言えば、血統でアイデンティティを決める国だ。血統と国籍が一致するのが多数派であるために、現状を世界基準に合わせることへの関心や必要性が高まらないうえに、反発も大きい。

血統、出生で何人かが決められてしまい、それに沿って人権の剥奪や差別に晒される人々を描いた作品に日本で日本語でアクセスできるうえにこんなに面白い。民族アイデンティティと人権の問題に目を向ける機会となることを祈る。

 

 

 

(余談)

このアイデンティティは、日本で両親も日本人で同様の出自の日本人に囲まれて生きてきた日本人にはあまりピンと来ないかもしれない。昨年、ケバブ屋でウズベキスタン人に会ったとき、彼はまずトルコ人だと名乗った。トルコ共和国出身なのかと思ったら、トルコ系民族という意味だった。

トルコ系民族は、トルコから新彊ウイグル自治区東トルキスタン)にかけて、主にトルコ、アゼルバイジャンウズベキスタン、新彊に居住してきた。トルコ系が多いというだけで他にもペルシャ系などをはじめ多様な民族が暮らしている。

国籍(ウズベキスタン)よりも民族(トルコ系)が彼のアイデンティティで先立つのかと、もはや興奮してしまった。民族、国民、国民国家主権国家体制、ナショナリズムに関心がある旅人なので。

これくらい、民族アイデンティティと国籍、出身国の関係は多様である。中央アジアのトルコ系民族が居住してきた地域への渡航歴と関心と多少の知識があったためウズベキスタン出身者がトルコ人と名乗っても納得できた。一時期、トルコ系民族について調べることが個人的にブームだったからだ。

民族と国民のセンシティブな関係への歩み寄りは、フィクションへの理解だけでなく、自らの所属する社会とその社会の属する世界への新たな視点の獲得にもなる。

 

 

 

参考

ホロコースト百科事典 | United States Holocaust Memorial Museum (最終閲覧2021年1月31日)