世界拾遺記

映画ドラマ漫画の感想、博物館訪問記、だいたい同じことを言っている

ウポポイ訪問記:本土の和人、ウポポイへ行く

本土の和人、ウポポイを目指す

9月末に日本で7番目の国立博物館である国立アイヌ民族博物館と併設した「民族共生象徴空間」ウポポイへ行ってきた。現在、博物館はコロナ対策の入場規制が実施されている。しかし、完全事前予約制となっていることを知らず直前で予約をしたために、博物館の入場時間がその日の最終回である閉館の一時間前の19時からになってしまった。

前泊地の札幌から白老までの移動もあったため到着は13時過ぎごろとなったものの、博物館の入場までにタイムテーブルの決まっている屋外施設をほぼ見学することができた。晴れていて昼間は暖かくても昼夜の寒暖差が激しいため、昼間の温かさに気を緩めず防寒対策は必要だ。コンクリートジャングル・東京で育ったあまちゃん和人は北の大地に翻弄され、夕方以降は寒さに震えながらの見学となった。

 

 

博物館

さて、本題の博物館展示について語っていきたい。まず、博物館側は1時間で展示を見て周れると判断し、1時間ごとの入場予約制と設定したようだが、それはいくらなんでも厳しかった。じっくり見学・鑑賞し、説明書きを読むなら最低でも1時間半は欲しかった。展示方法に工夫が凝らされているもののそれでも展示は想像より少なく、やはり気になったのは和人によるアイヌへの迫害、搾取、差別の指摘の少なさだった。それらに触れていたのは商場知行制、場所請負制でアイヌを搾取したこと、明治期に同化政策の一貫としてアイヌの文化や風習を禁じ日本語教育を施したアイヌ学校の部分くらいだった。

 

 

終わらない植民地主義

アイヌへの差別や迫害、搾取は植民地主義に基づいているが、まず植民地主義に触れている展示がない。博物館に併設されたシアターで北海道の歴史をたどる映像ではアイヌモシリを北海道として日本が併合し、その影響でアイヌの人口減少や文化伝承の困難に陥ったことに触れられていたが、植民地主義とは一切でてこなかった。ウポポイのメイン施設から1キロほど離れたところにある慰霊碑が何のためのものかすら語られていない。この慰霊碑は植民地主義に依拠し、アイヌを「野蛮な土人」と見なしたうえで和人より「劣る」存在だとする結果ありきの似非科学に基づいた形質人類学の調査のために、無断で盗掘されたアイヌの墓から持ち出された遺骨の合同慰霊碑だ。この遺骨は永く大学(主に東大、京大、北大)で保管されており身元不明なものも多い。アイヌによる遺骨の返還と謝罪を黙殺されてきたため、返還は遅々として進んでいない。墓の盗掘と遺骨返還問題は、アイヌだけでなくもう1つの日本の先住民である琉球も同様であり、現在進行形で続く植民地主義である。国連ではDNAで「人種」の差異を特定すること自体差別と定義されている。

アイヌと和人の関係を説明するうえで植民地主義から我々和人が目を背けてはならないにも関わらず、説明書きの一部に申し訳程度に迫害について添えられただけで、植民地主義に直接言及する展示は一切なく、むしろ展示全体からは、「和人とアイヌは昔はケンカもしたけど今は仲良し!」といったストーリーが浮かび上がってくる醜悪さがあった。差別する側の和人が言っているグロテスクさは一塩だ。特に醜悪だったのは、現代でのアイヌの多方面での活躍を紹介するコーナーでアイヌ料理人の男性が「料理の才能を活かしアイヌの食文化を伝えるアイヌ」と美化されていたことだ。彼が料理人を志したのは、中学生当時学年一の秀才であったにも関わらずアイヌであるという出自を理由に教員から差別され進学を断念せざるを得なかったからだ。この差別と人権侵害を語らずアイヌ文化の担い手として和人がマジョリティである国の国立博物館で展示することは、植民地主義は終わっていないことを示唆している。

 

 

加害の歴史と向き合う

もちろん、博物館を和人とアイヌの負の歴史で埋めつくしてアイヌは「かわいそうな」民族だと宣伝しろと言っているのではない。言いたいのは、加害の歴史から目を背けるな、ただこれだけだ。加害の歴史と対峙することは惨めでも自虐でもない。これこそ歴史に対する敬意の払い方であり、加害した相手への最大の誠意だ。しかし、恥さらしなことに日本は戦後すぐに戦争加害の直視を「自虐史観」と非難し臭いものにふたをすることばかりを覚えてしまった。この加害の歴史からの逃走と歴史修正をあらゆる方面で繰り返すうちに、常套手段として定式化されてしまっている。朝鮮人への加害の歴史を記すことを条件に世界遺産に登録された軍艦島の名ばかりの資料館で行われていることでもある。

歴史修正主義者による加害の歴史からの逃避方法は、①被害はなかったととにかく主張する②被害があったとしてもそれは同じ日本人が受けたものであり日本人こそ被害者③自ら進んで志願したのであって被害妄想をこじらせている、の3つにパターン化されている。慰安婦問題も軍艦島の徴用工問題も、先住民差別もこのパターンで歴史修正やヘイトのネタにされている。こんな低能なことばかりに特化した国家の末路は再びの全体主義権威主義に他ならない。

 

 

「共に歌う」日は来るか

ウポポイの来場者の多くは和人であることに異論はないだろう。和人が植民地主義と今も続くアイヌを取り巻く差別やヘイトの現状を知ってようやく「民族共生象徴空間」に立てるのではないだろうか。それらに無知な状態では、「民族共生象徴空間」ではなくただアイヌ文化を娯楽化し消費するだけの空間に成り下がるだけである。ウポポイとは「共に歌う」という意味だ。和人もアイヌも、それ以外の民族的アイデンティティを有する人も「民族共生象徴空間」で「共に歌う」ためには、所属社会の民族的マジョリティ性とその暴力性を自覚し、差別と人権侵害を許さずに向き合い続けることが必要不可欠だ。

私自身、辺境や国境に惹かれそれを目的に旅をするボーダーツーリストであり、所属社会での民族マジョリティであることに胡坐をかき、マイノリティへの配慮や思慮に欠けること、その暴力性を自覚し差別を許さず人権を尊重し自己批判を絶やさないことを念頭に置いている。ウポポイへのこの感想と指摘は自戒でもある。

 

 

『もののけ姫』感想:「日本」から周縁化された人々の物語

タタリ神は私だ

もののけ姫」を初めて見たのは小学生の時分だった。祟り神のおどろおどろしさは言うまでもなくゾッとしたし、エボシを「悪」として、年齢が近かったのもありサンやアシタカの肩を持ち感情移入していた。

しかし、ほぼ24歳になる2留目をぶちかましていた夏に初めてスクリーンで堪能した「もののけ姫」ではまず、タタリ神となり祟りの原因とは無関係なアシタカの村を襲ったナゴノ神を見て私だ、と思っていた。

 

アシタカの甘さ

村の家々が集まる中心地を目指す祟り神にアシタカは「静まりたまえ」と呼びかける。私はこう思っていた「丁寧な言葉や理性ではもうどうにもならねぇからタタリ神になってるのに、なに抜かしてんだよ。」

というのも、このナゴノ神の怒りや憎しみは身に覚えがあったからだ。私は女性蔑視やミソジニーを絶対許さないフェミニストだ。フェミニストとして女性が晒されている蔑視や偏見、差別を目の当たりにするときに湧き上がる感情と、ナゴノ神をタタリ神にしたそれは同じだ。私には、アシタカの「鎮まりたまえ」はトーンポリシングに聞こえた。アシタカはこの種の怒りを自覚したことがないゆえにできた発言であり、甘さだ。

 

 

社会的不条理への解像度

彼はこのあとタタリ神を攻撃したことで呪いを受け、祟りの種を身に宿しナゴノ神の怒りや憎しみを共有していく。ナゴノ神や私の怒りは、社会的弱者・劣勢に立たされたことがあるならば誰しも一度は持ったことがある又は十分に理解できる感情だ。それを知らないということは、弱者への想像力に欠ける傲慢な強者であり、自身が特権を振りかざしていることにすら気付いていないことと同義だ。

宮崎駿はアシタカを理不尽にババを引かされた「現代の若者」としているが、引かされなくても「生まれ」という変えられないババを割り当てられる人間もいる。親、生育環境、国籍、性別、それらを理由にした不条理な差別や不利益を自己責任と押し付ける社会や、それらとは無縁の社会的強者が「悪意なく」弱者を責めることは間違っている。

自己責任、努力不足と切り捨てた時点で自分はその点において特権を有しており、特権層というガラスの温室しか知らないナイーブな人間だと自覚が必要だ。ちなみにナイーブの英語での意味は、世間知らずで単純でバカという意味である。カタカナ語の「ナイーブ」のような繊細で傷つきやすいなどという意味はまったくない。アシタカの置かれた不条理な状況についてはより詳しく後述する。

 

 

タタラ場は「大きな政府」?

エボシはジブリ屈指の女傑であることは間違いない。「風の谷のナウシカ」のクシャナとも「天空の城ラピュタ」のドーラとも毛色の異なる女性だ。シシ神にまったく臆することなく石火矢を構える姿や引き連れたタタラ場の手勢に犠牲が出ようとも、総じてタタラ場全体に利益となることを優先する功利主義的側面はときに冷酷さとも取れる。しかし、タタラ場という共同体の指導者として住民に社会福祉を供給していることも間違いない。

 

エボシの過去

エボシは海外に売られ倭寇頭目の妻になり、実力をつけて頭目を殺害。日本に帰国しタタラ場を築いた。彼女の、アシタカの呪いの発露を目の当たりにしても動じない肝の太さや、神や迷信を恐れぬ豪胆さは奴隷時代に辛酸をなめ切り、地獄を味わった産物に違いない。そうすると、エボシが売られた女性を引き取ってしまうことは、タタラ場での労働力確保のためというより売られた女性にかつての自分を見ていることは想像に難くない。

 

エボシへの信頼の源泉

エボシを信頼できるのは、自身の味わった地獄から年下の女性を守っているからだ。例えば「私の頃は辛くても休ませてなんかもらえなかった。だから下の世代も同じ苦労をして苦しまないと割に合わない。」こうして負の連鎖に執着し改善を拒む「老害」は多い。エボシは地獄を断ち切り、売られていた女性を引き取り職を与え生活を保障する。たしかにタタラ場には女手が労働力、軍事力として必須であり、その補充にもなっていることは否定できない。しかし、重労働に見合わない低い対価しか支払われていない様子もなく、むしろ軍事力や製鉄作業での要職を若い女性たちが担っていることがタタラ場の女性たちの地位向上につながっているように見える。そもそも、タタラ(製鉄)は女人禁制とする迷信がある。エボシの近代的な思想の正の側面である。

売られた女性を引き取るだけでなく、エボシはハンセン病者も引き取り職と生活を保障している。ハンセン病は「業病」と呼ばれ、前世で罪人だったから、遺伝する病などと現代まで続く強烈な差別と偏見があった。ハンセン病者と関わることは、その人も偏見にさらされることを意味していた。それでも患者の包帯を替え、欠損した体でも可能な石火矢の改良という頭脳労働と生活を提供した。これはまさに「健康で文化的な最低限度の生活」をクリアしている。病気が進行して寝たきりとなった「長」の面倒を見るなど、彼女が決してハンセン病者たちを一方的に使役していたのではないことが伺える。働けなくなった病人に生きる権利と生活の保障をしている。裁判所が生活保護費削減を命じ、優生思想に基づいた嘱託殺人が起こる現代日本より充実の福祉と高い人権意識である。

これだけではない。エボシによる女性の重用が女性の地位向上につながっていたのと同様に、ハンセン病者への差別や偏見もエボシの権威によって軽減されていたのでないだろうか。ハンセン病者たちの職場を彼女は「恐れて誰も近寄りたがらない私の庭」と形容しているが、恐れはしていても彼らを排斥したい感情まで向けられているわけではないことや、シシ神退治中に武士に襲われたタタラ場ではハンセン病者たちと女性たちが共闘し最後は助け合いながらタタラ場を脱出している。

差別や偏見、ヘイトの無い素晴らしい社会と人々だったと手放しに賛美したいわけではない。女性蔑視や障碍者差別が現代社会よりも高度な次元で克服できていることは確かだが、人を寄せ付けぬ神々の森と山犬を克服すべき前近代の象徴と見なすことで、タタラ場の住人たちは結束を固めている。近代国民国家ナショナリズムに内包された排外主義のようでもある。山犬やシシ神の森を共通の敵にして「タタラ場」のアイデンティティを芽生えさせ、「国民意識」を共有する。

このように、売られた女性やハンセン病者に社会福祉を提供するタタラ場は「大きな政府」ではないだろうか。「大きな政府」の特徴として、大規模な国営事業がある。タタラ場の製鉄事業は実質的に「国営」と言える。タタラ場の共同体の指導者・エボシが経営し、タタラ場の主要産業は文字通り「タタラ場」だ。タタラ場の利益が社会的弱者救済の財源になっている。

 

 

日本の「正史」からこぼれ落ちた「邪道」な人々の物語

さて、ようやく本題に入る。「もののけ姫」は室町時代の日本列島を舞台にしており、緑の濃い山林や自然に宿る神々の描写はいかにも「日本的」だ。しかし、この物語を「美しい日本スゲー」映画などでは全くない。むしろその対極にある。なぜなら日本の「正史」には絶対に登場しない、というより登場させてはいけない周縁化された人々の物語が「もののけ姫」だからだ。

 

歴史教育の欺瞞

まず、わざわざ「日本史」ではなく「日本の『正史』」と表現したのにはわけがある。高校までの歴史教育で扱われる「日本史」は、時の政権が教えたい日本史に他ならない。それは「万世一系天皇が古から統治してきた世界でも他に例を見ない唯一無二の国・日本」というシナリオをしていて、数多ある歴史的事実の中からこのシナリオに沿うものだけを拾い上げ肉付けしてできている。つまり、日本列島のたどった歴史のほんの一側面でしかないだけでなく、かなり恣意的な誘導が組み込まれている。日本列島には昔から「日本人」しかいない、否である。朝廷や朝廷の権威に基づいた幕府によって古くから日本列島はあまねく支配・統治されてきた、これも同様に否である。歴史教育で扱われる日本史とは、歴史的事実で構成されたフィクションでしかない。では、なぜ歴史教育はフィクションを扱うのかというと、歴史教育愛国心教育とイコールだからだ。近代国民国家にとって、住人に国民意識愛国心を持たせることは必要不可欠であり、その手段として歴史が用いられてきた。「もののけ姫」では、教育を通して根深く植え付けられている「日本人」という色眼鏡を、二度とかけない勢いでかなぐり捨てて鑑賞する必要がある。

では、登場人物のマージナルぶりを見ていこう。まず、アシタカは東北地方の奥深くに追いやられたエミシの末裔だ。エミシとは、東北地方に居住していた人々で、征夷大将軍が討伐対象にしていた朝廷に従わない「まつろわぬ民」のことを指す。また、エミシはアイヌとも異なる。エミシは次第に姿を完全に消すが消滅したのか北上してアイヌと合流したのか、和人に混じっていったのかは不明なマイノリティだ。

そして、タタラ場の女性たちの「テンチョウサマ?ミカド?」「下界」といった言葉からわかるように、朝廷や天皇など知らない人々にはじまりハンセン病者、人身売買されていた女性によって構成されているのがタタラ場だ。そもそも、タタラ場の住人は農村などでは食っていけなかったり戦で故郷を追われてたどり着いたような人々の可能性が高い。

日本の「正史」や教科書、大河ドラマ、時代劇では絶対に描かれないような混沌とした活気や喧騒のある中世日本列島のリアルな姿を日本で影響力のあるアニメ監督が作品で表現してくれたことが嬉しくてたまらない。地上波で毎年ジブリアニメの放映があるたびに、たとえ放送されなくても、話題にのぼることもあるだろう。そうして何らかの形で常にスポットライトのあたることのない歴史が、本来の通りに受け取られていなくても社会的評価という説得力を得ている状況は、日本中世史の非王道を支持する立場からは貴重だと言える。ある意味で「反日」アニメであるそのスタンスにただただ敬意を表する。

 

 

25年たっても変わらないメッセージ

時を経ても変わらない普遍的メッセージすごい!などではまったくないことを申し上げておこう。監督にケチをつけたいわけではなく、25年たっても変わらないこの社会にケチをつけている。

 

「現代の若者」へ

「『もののけ姫』はこうして生まれた。」によると、監督は「もののけ姫」の主人公アシタカを不条理な運命を負わされた若者とし、「現代の若者」が置かれた境遇とリンクさせた。「現代の若者」も不条理にもババを引かされた境遇にあり、アシタカを通して、不条理な人生との付き合い方を示したいという思いが監督にはあった。「現代の若者」とカギカッコでくくっているのは、1995年の映画製作当時の「若者」を監督は指しているからだ。つまり、バブル崩壊後の不況しか知らず就職氷河期にも見舞われた世代のことだ。

さて、25年たった現在の若者の境遇は改善され、当時の「現代の若者」に突き付けられた不条理は過去のものになったと言えるのか。否だ。新自由主義の台頭で富めるものがさらに富み、貧困は自己責任とされ行政に見放された。「大きな政府」タタラ場との対比で息が詰まる。こうして賃金が上昇せず相対的に国際的に物価の安い国になった。オックスフォード大の研究によると、日本の中間層は貧困層へと没落したという。大卒新卒の初任給の手取りが20万円を切り、日本人の年収の中央値が350万円にとどかず、年金などもらえそうにないのに貯蓄もできない人が多数になった。金がないから消費しようがないのに「若者の○○離れ」とバブルの尺度を引きずった老害によるハラスメントが追い打ちをかけてくる。

 

現代の若者へ

そして、コロナ禍で浮き彫りになった感染拡大を若者をスケープゴートに言い訳を重ねる政治家と、首相以外誰も着用していない不潔な布マスクを配るためには466億円の税金を使っておいて、学生支援には10億円しか予算を割かない徹底ぶりを見せた。院卒者が働けても学歴に見合わない低賃金しか支払われず、海外への頭脳流出が止まらず「技術大国」をもはや過去のものにしてしまったことにすら気付かないのだから想定内とでもいうべきか。つまり、25年前の「若者」と現在の若者はババを押し付けられていることに変わりはなく、25年間にこの社会は改善していなかった。

四半世紀もの間、社会の不条理を放置し再生産した2020年の日本において「もののけ姫」がスクリーンで再上映となったことを皮肉だ、と冷笑しては不条理が再生産されるだけだ。受けた「呪い」を種に祟り神になって、また誰かに「呪い」を振りまいているだけだ。いい加減、アシタカのように呪いを解くために行動を取り「曇りなき眼で見定める」ときではないか。それにはまず、不条理を不条理と捉えるところから始めなければならない。「呪い」の出どころが巧妙に隠蔽されてきたからだ。受けた「呪い」は自己責任ではなく、不条理なものと社会全体で認識を改める必要がある。この点が含まれる分、25年前の「若者」より状況は過酷になった。それでも今回こそメッセージを受け取り「呪い」を解くだけではなく、もう一歩踏み込みたい。シシ神に石火矢を向けるエボシに刀を投げるしかできなかった甘さではなく、心臓を狙って確実に仕留める一打をここぞというときに放てる強さを持ちたい。

 

 


参考文献

浦谷年良アニメージュ増刊編集部篇(1998)『「もののけ姫」はこうして生まれた。』(株)徳間書店

 

 

 

『アメリカン・アニマルズ』感想:楽な生き方の代償

 

あらすじ

刺激を欲していた大学生、ウォーレンとスペンサーは1200万ドルになるという図書館の貴重な蔵書を盗むことを思いつく。チャズとエリックを計画に引き入れ犯行に及んだ実際の強盗事件を本人たちの出演と回想により紐解いていく。

 

 

実話の「物語」

この映画では、退屈な日常に刺激や人生が一変するような体験を欲していた大学生4人が大学図書館の貴重な蔵書を盗み転売することを計画し犯行に及ぶまでが、刑期を終え出所している実行犯本人たちが出演し回想する形式で展開される。実話に基づいたフィクションというより、回想と再現によるドキュメンタリーと言った方が近く、それを知らずに見ると本人が登場するので面食らう。被害者本人が証言するドキュメンタリーは多いが、これは加害者が出演している珍しさがある。この加害者が出演していることについては後述したい。

 

 

現実にフィクションを投影していた

この映画はNetflixから視聴したが、そのあらすじには

 

タイプの異なる大学生4人組が企てた前代未聞の強盗事件。

大学の図書館に所蔵されている希少な本を狙った大胆な計画だったが、

そこで彼らが直面した運命とは。

 

とあり、サムネではスーツを着こなした若い4人組が時計の歯車のように噛み合った華麗な所作で犯行に及ぶ映像が流れる。これを見て『オーシャンズ』シリーズのような娯楽作を期待して再生ボタンを押した。

しかし、実際の犯行は1回目の挑戦では土壇場で怖気づき未遂に終わり、執念に急き立てられ、翌日に穴だらけの計画を実行し初っ端から不手際の連続で焦って焦って結局素人じみた幼稚で杜撰な結果となり、4人は犯行からほどなくして逮捕され7年超の実刑判決が下った。サムネ動画の部分は、計画中に「そんなうまくいくわけない」と一蹴された妄想部分だった。

杜撰な犯行の顛末を知ってもサムネに騙されたとは全く思わなかった。素人による強盗などこんなものである場合がほとんどだ。それでも現実で起こった事件に対して『オーシャンズ』のような華麗な手口や『プリズンブレイク』のような緻密さを期待していた。まぎれもなく、現実に対してフィクションを投影していた瞬間だった。

犯罪や暴力表現の規制要求に対するありふれた反論に「現実とフィクションの区別ぐらいつく」という主張がある。イギリスにホグワーツはなく、銀河の平和はジェダイによって守られてはいない程度の区別でもって現実とフィクションの区別はついていると言うのは容易い。しかし、中学生の頃から強盗、脱獄映画を見ているとそれらがフィクションだとわかっていても、現実で起きた強盗事件に無意識にそれらを投影し期待していた。現実にもありふれている強盗という犯罪を扱ったフィクション(しかも娯楽作)を、現実の事件に無意識に投影していたことは問題だ。まさに現実とフィクションの区別かつくかどうかが槍玉に挙げられるときの問題の焦点そのものである。現実の犯罪、特に被害者が存在する犯罪に現実と乖離したフィクションのご都合主義や非現実性、娯楽化に伴う矮小化を期待することは無意識レベルで起こり得るのだ。

 

 

加害者の映画出演

犯人の大学生4人は犯行からほどなくして逮捕され、7年超の実刑判決を受け大学は中退となったうえで20代のほとんどを刑務所で過ごすことになった。現在は出所して社会に復帰しているが、その人生は強盗で実刑判決という前科がつきまとう。刺激が欲しかった、自分は特別だと証明したかった、人生が変わるような体験がしたかった、その欲に理性が負けた代償を一生払うことになった。

この事件は、貴重な本が盗まれただけでなく、司書が1人スタンガンで攻撃され拘束され傷つけられている被害者のいる。その犯人が映画に出演することは、犯罪によって出演料を得るだけでなく売名行為にもつながる。それを考慮しても彼らの出演が肯定されているのは、「世間に迷惑をかけて申し訳ない」ではなく「被害者を傷つけて申し訳ない」が言えているからだ。犯罪を犯しつかまった作家やアーティストの作品が販売停止になるのは、報道で知名度が上がることで犯罪が売名行為や直接的な金儲けになり得るからである。性犯罪で逮捕された漫画家の連載が打ち切りになり単行本が絶版になるのは、被害者のいる犯罪が犯人の金銭的利益につながるのも同じロジックだ。もちろん、被害者の司書もこの映画に出演しており彼女が彼らの出演を許可したであろうことは想像に難くない。

 

 

信じたいことを信じた代償

実行犯による回想で最も印象的だったのは、彼らのうち1人が犯行に及ぶまで「信じたい物語を信じていた」と語っていたことだ。計画の実行に拘っていたリーダー格のウォーレンが盗んだ本を売るアングラ古物商と接触できたために計画が加速したが、彼が言っていたことは嘘なのではないか、当時は信じたいものを信じていただけではないだろうかと。

犯罪など計画はしないから「信じたい物語を信じてしまう」ことには陥らないと考えてはいけない。彼らが退屈した日常にも真実だと思い込ませようと待ち受けている「物語」はあふれている。例えばニュース。実際の国会審議ではほとんどの場面で野党議員の追及に与党議員はしどろもどろだったのに、回答できたほんの一部を切り取って「野党の追及に屈しない頼もしい政治家」の「物語」を放映すること。例えばSNS。過去のまったく関係のないデモ集会の映像を切り取り「パンデミック下でマスクをしない支持者たち」の「物語」を創って気に入らない相手を攻撃すること。例えば歴史。先の戦争での日本の近隣アジア諸国で日本軍による虐殺行為にはいっさい触れず「日本国民こそ戦争の被害者」の「物語」を強調し、加害の歴史から目を背けなかったことにしようとすること。

かく言う私も、Netflixの用意したあらすじとサムネ動画から『オーシャンズ』シリーズのようなカッコイイ犯罪集団が華麗にターゲットをかっさらう「物語」を信じた。このように、「信じたい物語を信じる」ことは容易い。このハードルの低さが批判的な視点や、理性的な対応や思考を鈍らせる。手軽で気持ちも良いものに囲まれての暮らしを欲するのは自然な機微だ。

しかし、この思考するひと手間を惜しんだ怠慢のつけは彼ら4人が示したように、一生払い続けなければならなくなる。主権の行使を怠れば国民主権すら失われた権威主義独裁国家で暮らさなければならなくなる。SNSでデマを拡散し中傷すれば訴えら社会的に信用を失いプライベートでも家族や友人を失う。学術研究に基づいて歴史を扱えなくなれば国際的な信用は失墜し世界から相手にされなくなる。娯楽作のフィクションを現実の犯罪に投影していることに無自覚だとフィクションのご都合主義が現実でも通用すると無意識が働いて他者を加害する。

 

 

反知性主義という楽な生き方

スタンガンで襲われた被害者の司書の女性も出演しており映画の最後で

 

彼らは楽に生きることを望んだのね

知識を得て成長する体験を拒んだ

他人の体験に対して手を貸すこともせずに

とても自分勝手よ

 

と語っている。「他人の体験に対して手を貸す」図書館司書ゆえと受け取れる言葉だ。本を盗むということは人類の共有財産への侵犯でもあるため、知識や知恵への冒涜や反逆を象徴する行為であることも念頭にあるのではないだろうか。

「信じたいこと」は理解もしやすいため、学ぶ際の理解が追い付かないもどかしさや、自分の頭脳を否定されているような腹立たしさも感じにくく、全能感に酔って病みつきになってしまう中毒性がある。だがそれは建設的な批判や思考を放棄した反知性主義にほかならない。知恵を得ることを拒んだ人間が一生負うことになる代償の大きさを、実際の強盗事件から学べるのがこの映画だ。

 

 

『ブリジャートン家』感想②:「現代のジェイン・オースティン」が描く近世ロンドン社交界ー1ー

 

 

『ブリジャートン家』は、19世紀前半のイギリス社交界を舞台にした物語だが、その展開はフェミニズムによって支えられている。原作小説の著者が「現代のジェイン・オースティン」と称されており、人種的多様性はドラマのプロデューサーによるが、フェミニズムに依った表現は原作由来という理解ではずれていないだろう。

 

 

婚姻における女性の主体性

ブリジャートン家の長女ダフネが誰と結婚するのかまでが物語のメインになっている。彼女は両親のような愛のある結婚と温かなな家庭を夢見ているが、彼女に結婚相手を自由に選ぶ権利は実質ない。ダフネはもちろん相手を選ぼうとするが、家長である長兄アンソニーはあたりまえに妹の結婚に干渉している。本人は歌手との身分違いの恋に身をやつして独身なのにだ。さらには彼は人を見る目も無かった。にもかかわらず、年長であり自身が見繕ってきたダフネの夫候補に賛成していない母を差し置いてアンソニーの許可がいる。これが家父長制だ。

母は例の夫候補にいい顔をしないが、彼女が表立って家長に意見する場面がない。家長の意見しか必要ない環境に長年置かれていると、そこに疑問を抱かなくなってしまうのだろう。

ダフネには許可が必要だった一方で、三男コリンは家族への相談も家長への伺いも無しにマリーナにプロポーズしている。

 

 

女性にだけ求められる処女性と家父長制におけるその機能

ロンドンの貴族社会では、未婚の女性は夜に庭で男性と2人きりになっただけでふしだらな卑しい女認定がなされ、偶然そうなったり不可抗力でそうなった場合は、醜聞になる前にその相手と結婚するしかなくなるそうだ。ここで重要なのは、名誉が傷つくのは女性だけで男性はそうならない非対称性だ。ダフネにつきまとい、夜の庭園で1人になったダフネに迫ったあの貴族もそれを知らなかったわけがない。自分への反応が悪いダフネに痺れを切らし、既成事実を作ろうとした。本当の紳士だったら相手女性がプロポーズに応じるのを待つか、叶わなければ相手のために身を引くのが当然の行いでなければならない。卑劣だ。

もちろん女性から男性に迫り結婚を要求することもできるが、断られた際にダメージを負うのは女性だけで、リスクがあまりにも大きすぎる。この慣習を利用して意中の相手から選択肢を奪うのはやはり男性の特権になっている。

もう一つ、処女性や清純さを女性にのみ求めるのは、女性を家父長制に誘導するためではないだろうか。家父長制は婚姻した男女とその子供からなる「家族」によって維持される。それを揺るがすような、家長の認めない相手と既成事実を作られ結婚を許可せざるを得なくなったり、未婚の母と婚外子からなる家父長制のポリシーに反する家族を排除するために機能しているように見えてならない。

このような処女性の神聖視も、男性と2人きりになった女性への蔑視も個人の人格を無視し特別視している点で同根と言える。つまり、女性を尊厳を有した一人の人間だと見なしておらず、モノのように扱っている。出産賛美や母性神話などの女性への神聖視も、一見すると貶めているわけではないから問題ないように思えてしまうが、対等な人間と見なしていない時点でアウトだ。

 

 

泣き寝入りするしかない被害者

勝手に入れ込んでくる男から襲われたダフネは、それがバレたらその相手と結婚しなくてはならなくなるため言えずに泣き寝入りするしかなかった。これは男性と二人きりになっただけでビッチ扱いになる当時の社交界に限った話ではない。現代でも、女性だけが名誉を失う非対称性のために性被害を届けでられない人は多い。

泣き寝入りに追い込まれる原因はこれだけではない。1人夜間に屋外にいた女性が責められたり、男性と女性で主張が食い違った場合、嘘つきにされるのは往々にして女性になるからでもある。加害行為が誰がどういう経緯でなされたのかによって断罪されるのではなく、結果ありきで女性が断罪される。女性の言葉が男性よりも軽んじられる。こうして女は口をふさがれてきた。

ダフネが実の兄にすら夜の庭で迫られた被害を打ち明けないのが印象的だ。性暴力に等しい被害にあっても家族にすら助けを求められないのが、この時代の貴族女性を取り巻く理不尽な環境だったとわかる。アンソニーは被害を知って加害者との婚姻破棄を決め妹を卑劣漢から守ろうとしてくれたが、ダフネの反応からしてバレたら醜聞になる前に結婚させるのが当時のデフォだったのだろう。差別や理不尽は選択肢を奪うのが特徴の一つだ。

 

 

続く

 

 

『ブリジャートン家』感想①:似て非なる超進化版ゴシップガール

Netflixオリジナルの新たなヒット作

2020年12月25日に公開されたNetflixオリジナルドラマ『ブリジャートン家』。公開以来4週間で6300万世帯が視聴したNetflixの新たなヒット作だ。

見始めたら止まらなくなり一気見してしまった。

 

 

あらすじとみどころ

まず簡単にあらすじをまとめると、19世紀前半のロンドンを舞台に、あたたかな家庭で育ち両親のような愛のある結婚と温かな家庭を夢見て社交界にデビューしたブリジャートン家8人きょうだいの長女・ダフネと、彼女の境遇とは正反対に、親の愛を知らず孤独に育った公爵家の一人息子・サイモンがお互いの利害が一致したため「ビジネスパートナー」として始めた「付き合ってるフリ」をきっかけにお互いを意識していくロマンス、といったところ。

本編を見ずともサムネだけで、ロンドンの上流階級や社交界を描いた作品なだけあって衣装の華やかさに目が行くが、ファッションについては門外漢なので触れずにそっとしておく。ファッション以外にも、テイラー・スウィフトやビリー・アイリッシュの楽曲がアレンジされ挿入されていたりと、アートの側面から楽しむことができる作品になっている。自分にこの作品のアートやファッションを十分楽しむだけの教養も関心もく、デザインのこだわりがスゴイんだろうな、ぐらいの粗い解像度しかないのが本当に残念でならない。

と言うことで、ここでは従来の貴族モノには乏しかったキャスティングの多様性と、家父長制やジェンダー規範にテーマを絞って見ていきたい。

海外作品をこの視点なしで見るのはもはや何が見えるんだというくらい、現在進行形で取り組んできた問題であり、日々思考が凝らされている部分から目をそらさずにいたい。

 

 

ヒロインの相手役は黒人の公爵

貴族モノなのに黒人俳優が起用されてることに興味を持った人も多いはずだ。なぜこの配役が実現したのか。原作がそうなのか、映像化の過程でそうなったのか。見進めていくと、サイモンの育ての親であるレディ・ダンベリーが「王が非白人女性と結婚し、非白人にも爵位を授与することになり私たちの家が始まった」と語るシーンがあり視聴者はようやくif設定なのかと合点がいく。

この設定は、『ブリジャートン家』のプロデューサーの1人クリス・ヴァン・デューセン曰く、作品中にも登場するシャーロット・イングランド女王(ジョージ3世の妃)はロイヤルファミリー初の黒人の血を引く王妃である可能性から、女王がミックスレイスなら非白人貴族家があってもいい、と着想を得て生まれたようだった。ちなみに、原作で白人設定だったのはマリーナ・トンプソン、サイモン、レディ・ダンベリー。主要貴族キャラはオリジナルでは白人として描かれていたと考えてよさそう。

このようなパラレル世界設定は『ブリジャートン家』が初めてではない。すでにアメコミで取り入れられており、映画『スパイダーマン:スパイダーバース』では、パラレル世界が交わりそれぞれの世界のスパイダーマンが一堂に会する形で、黒人、女性、アジア人など多様なヒーローが活躍した。if設定を歴史に盛り込むのは大胆な賭けのようにも見えるが、歴史上のあの人物があの事件の後も実は生きていて、のようなif設定は創作の定番だ。

この時代劇での白人ばっかり問題は、架空の世界を舞台にしたファンタジードラマ『ゲームオブスローンズ』ですら克服できなかった。『ゲームオブ~』では、白人は王侯貴族で有色人種は奴隷か西洋帝国列強が「野蛮」「未開」と見なしそうな異民族だった。東アジアっぽい戦闘装備を身に着けたキャラクターも白人がキャスティングされた。それを19世紀前半のロンドンを舞台にした作品でやってのけたのは特筆に値するのではないだろうか。

白人ばっかり問題は、キャスト一覧だけを見れば人種的多様性が達成されていても、作品本編ではモブキャラだったり、白人キャラにはある活躍場面がなかったりと根は深い。例えば、『スターウォーズ』新3部作のように黒人やアジア人を起用し、宣伝ではあたかも彼らがメインキャラクターとして活躍するかのように扱いながら、本編では脇に追いやった。このことは『スターウォーズ』のフィン役の俳優が抗議している。

一方、『ブリジャートン家』では有色人種キャストをこのような仕打ちにしているわけでもなく、ヒロインの相手役となる公爵や、この第1シーズンでダフネと対になるキャラ、マリーナといった主要キャラに多様性を反映させている。これも、過去の作品の問題点を改善した要素の1つになっている。

しかし、1つ気になったのは、わざわざ黒人貴族家が存在する理由を作中で説明したことだ。人種差別が描かれるならその理由が言及されるのは必然だが、この作品では人種差別にフォーカスする展開はなく(もっとも、原作では主要キャラが白人設定であるため、人種差別される側になる展開は起こり得ないが)、むしろ舞台版ミュージカル『レ・ミゼラブル』のファンティーヌがアジア系でジャベールがアフリカ系でキャスティングされたりするように、人種に関係ない配役がなされたと言われた方が納得できそうなほどだった。

それゆえに、黒人貴族がいる背景の説明がかえって「黒人は本来貴族ではない」と有徴化しているように映ってしまった。母親が家事をするのに理由はいらないのに、父親が家事をするのには理由が求められるのと同じだ。確かに黒人貴族家の存在は気になるが、本編で言ってはせっかくのキャスティングの良さが損なわれてはいないだろうか。貴族モノ時代劇で有色人種を貴族としてキャスティングするにはパラレル設定などがないと不可能と言っているようなものではないか。映像作品において舞台演劇のように俳優の能力や魅力でキャスティングするのはまだ難しいということか。

 

 

貴族版『ゴシップガール』?

ネットで『ブリジャートン家』を日本語で検索すると、恋愛模様や匿名の瓦版で登場人物のゴシップがスクープされ物語が動くことから、貴族版『ゴシップガール』と言われているのが散見されたが、この作品は『ゴシップガール』とは似て非なる作品だと言いたい。

『ゴシップ~』は異性愛者の白人美男美女による恋愛ドラマであり、1994年放送開始のドラマ『フレンズ』と変わらない規範が反映されており、人種的多様性にも性的指向の多様性にも欠ける。登場人物たちを翻弄する匿名メディアも、『ゴシップ~』ではストーリーを動かす機能としての側面が目立つが、『ブリジャートン家』の方はそれにとどまらない。外国出身の非英語ネイティブで働く自立した女性が英国貴族だけでなく女王までペン1本で翻弄する構図が浮かび上がる仕組みになっている。『ゴシップ~』は、最終話でゴシップガールの正体はダン・ハンフリーだと明かされるので、それを踏まえると『ゴシップ~』も庶民がセレブを手のひらで転がし操っていた構図になる。しかし、実際はドラマの途中まではセリーナの弟、エリックがゴシップガールの中の人として伏線が張られていたらしい。ニューヨークポストのスクープでそれが報じられてしまい、ダンに変更されたとか。

さらに、入り乱れる恋愛模様が見どころの『ゴシップ~』に対し、『ブリジャートン家』は原作小説の作家が現代版ジェイン・オースティンと称されるだけあって、女性差別や家父長制、ジェンダーロール問題が織り込まれている。ここが最大の違いだ。『ゴシップ~』の表現上の問題点を改善、克服した似て非なる超進化版『ゴシップガール』が『ブリジャートン家』だ。両者を同列で語るのは乱暴が過ぎる。

ゴシップガール』は2019年にリブート版の制作が決定した。オリジナル版のその後のニューヨーク上流階級の高校生たちを描くようなので、白人異性愛者のみだったオリジナル版からどうアップデートするか注目だ。