世界拾遺記

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性差の日本史訪問記:「日本史」の日陰から

女性史が「企画」される意味を考える

ジェンダー〈性差〉の日本史』と銘打たれ、「女性史」ではなくあくまでも「男女の」性役割の歴史の企画展となっているが、その内容のほとんどは埋もれていた女性リーダーや女性家長、社会における女性の待遇と差別に言及するものである。それが「企画」されるということは、翻って学校で習ういわゆる「日本史」は男性中心の、男性の歴史であることを如実に示している。常設展には女性は登場させていないから「企画」として成立してしまう。つまり、この『ジェンダーの日本史』展は「日本史」の日陰にスポットライトをあてた企画だ。ようやく日の目を見たと言える。

受験生時代に日本史の予備校講師が、"history"は"his story"だと言っていた。その講師は「歴史」とは歴史的事実を組み合わせで構成されたノンフィクションに近い物語であり、編纂者つまり時の権力者によって物語は表情を変えるという意味だった。ジェンダーの日本史展をふまえると、"his story"はまさに「"彼"の物語」であって、"her story"にも"their stories"にも今のところなり得ていない。女性への社会的な抑圧と排除の歴史がテーマに掲げられた企画展の新規性が際立つうちは、女性差別と排除の歴史が社会に広く浸透しておらず、多くの博物館の常設展にもその視点が欠けている証左だ。(歴博では常設展のリニューアルに伴い、マイノリティの歴史につての展示を充実させ、ジェンダー研究を進めてきた。)

 

 

ジェンダーは「性差」なのか

ジェンダー〈性差〉の日本史』のジェンダーに「性差」があてられている。しかし企画の内容的に「性差」より性規範が適当ではないだろうか。性差とは、「男性の平均身長は女性のそれよりも高い」のように客観的なデータで示される差異のことである。一方で性規範とは「女は家事をすべき」「男は泣くな」などの性別役割分業や、べき論で語られる性別を理由にした社会的に創出された規範のことだ。展示の内容は社会の変遷とともに成立、変容していった性規範や社会で作られていった性差別の歴史を追ったものであり、それは性差ではく性規範だ。

性差の定義と展示内容が食い違うだけでなく、ジェンダーと性差も含まれる意味が矛盾しているからだ。ジェンダーとは文化的社会的な性のことで、身体的生物的な性をセックスと言う。性差は身体的な差異に基づくためジェンダーよりセックスの文脈で使われる言葉であり、文脈が全く噛み合っていない。

そもそも、性差も性規範もジェンダー論を学ぶときに入門レベルで必ず習う専門用語と考え方だ。しかし、「性差」のように字面から何となく意味が推測できてしまう言葉にさらに何となく意味を知っている気がするジェンダーという言葉をあててしまうとミスリーディングを招くだけである。何となく「性差」の意味が分かった気になって学ぶ機会が損なわれていないだろうか。「性差」という言葉のわかりやすく目を引く点が今回の企画展のタイトルに採用された主要な理由の一つであることは推測に難くない。それだけに安直過ぎたのではないだろうか。「理解しやすさ」に大幅に振り切る傾向はポピュリズム的だ。博物館の企画展で言葉のキャッチ―さ、安直なわかりやすさにこだわる必要はない。さらに、ジェンダーも性差も学術用語だ。女性差別と排除を扱いながら、それを学問として体系化し研究し、啓蒙してきたジェンダー論への裏切りではないだろうか。

 

 

女性の客体化の歴史

広告やPRで炎上する企業が後を絶たない。タカラトミーやアツギが記憶に新しい(2020年11月5日現在)。共通するのは女性の客体化とその消費だ。(私は問題の本質は客体化だけでなく、女性からの抗議があがることを想定せず、もしくは透明化して向き合わない姿勢は「モノ言う女」の拒絶であり、紛れもないミソジニーの発露であることも重大な問題だと考えている。)これらは性的客体化であることが多いのも火に油を注いでいる。この女性の客体化、モノ扱いは今に始まったことではないとある展示から判明した。

1825年すでに職人の女性を「花容(はなかたち)」と呼び彼女たちを鑑賞する画集『花容女職人鑑(はなかたちおんなしょくにんかがみ)』が出版されていた。しかも、中世では性別で区別はなかった職人も、時代が進むにつれて女性の手工業職人は描かれなくなり、遊女や夜鷹など性的な職業に限定されていった。近世には男性の職人を「職人」、女性の職人を「女職人」と呼び分け、「女職人」を「職人」と対比して二流扱いしている。

これは過去のものではなく現代にも通じている。例えば、女性にだけ「美人〇〇」「美しすぎる××」の冠詞がつく。それが社会的地位のあるプロフェッショナルな職業だとしてもだ。男性はプロフェッショナルで理知的な側面に焦点があてられる一方で、女性は職務や能力とは関係のない容姿ばかり注目される。ただでさえ、女性というだけで化粧して髪の毛の先からつま先まで手入れが行き届いていないと「怠慢」と見なされる。

ほかに有名な例では、カーテンで受験者が見えない状態でオーケストラの入団試験を行ったら既存メンバーは男性が多数にも関わらず、合格者の大半が女性になったというものがある。演奏ではなく演奏者の生まれ持った性別で演奏の良し悪しを判断することが常態化していたことを示している。差別とは性別、国籍、民族、人種など選ぶことのできない生まれ持った属性を根拠に不当な扱いや中傷をすることであり、性別を理由に能力を決めつけることはド直球の差別だとわかるはずだ。男性は男性というだけで下駄を履かせてもらえる性差別が江戸時代から存在していたことには戦慄を覚える。300年以上差別が改善されていないことに戦慄を覚える。

一つ気になるのが、この展示をみて他の人は何を考えたのだろうか。この画集を知ってこれが現代にも脈々と受け継がれている女性差別だと捉えた人はどれほどいただろうか。展示を見て何を感じたか考えたかを強制するのは言語道断であるが、限られた展示スペースでこれが選ばれた意味をくみ取るにはやはり、性差別の現状や性規範の押し付けによる抑圧を知識として、解決されるべき社会問題として理解がないと難しいのではないだろうか。絵画の展覧会に行っても、その画家や生きた時代や文化を知らないと「きれいだな」ぐらいしか感想が述べられないのと同じだ。

 

 

「女性活躍」と「女性頑張れ」

もう一つ戦慄したのは、戦後に社会への女性参画を促すポスターが「女性頑張れ」を掲げていたことだ。昨今、政策としてもよく耳にしていた「女性活躍」には「女性が頑張れ」までがセットだ。これに違和感を抱かない人は実際多い。しかし、「頑張る」べきは女性ではないはずだ。男性優位社会では女性は十二分に頑張っても男性と同等に評価されることはない。入試での女性差別を例にすると、男性の合格者よりはるかに高い点数を取っても女性というだけで不当に過小評価される。つまり、「頑張る」べきは女性ではなく男性優位社会で女性排除を止められない男性だ。女性の「頑張り」が性別を理由に過小評価されない社会を作る「頑張り」を怠っておきながら、まるで女性が「頑張って」いないから女性の社会参画や活躍が進まないと女性の自己責任にしようとする姿勢こそ、「女性活躍」を阻んでいるといい加減気付いてくれ。

このポスターは1949年のものだ。つまり、70年以上経ちながら全く問題の本質が見えていないうえに、男性優位社会は変わっていないことをまざまざと突き付けている。歴史系の博物館で自分が生まれるずっと前の時代の展示で、現代社会に連なる自分が当事者の差別を突き付けられる絶望感は一塩だ。

 

 

「日本史」の日陰はどこまで広がっているか

学校で習う「日本史」は、教える側が教えたい筋書きにそれに沿った歴史的事実を無数に存在する中から選んで肉付けして作られた「物語」だ。ここでの「教える側」とは単に教師を指すのではない。国家のことだ。国が教えたい、裏返すと国民に知ってほしくないものを覆い隠した歴史とは、「日本列島は単一民族によって古くから治められてきた世界に類のない美しい国万世一系天皇バンザイ」のことだ。私は大学受験で日本史を選択しており、大学に入って受験勉強を活かしてラクできると目論んで受講した日本中世史の授業で、受験の日本史とはまるで異なる日本像が浮かび上がって度肝を抜き、もう二度と日本史には自信があるだなんてナイーブなことは言うまいと誓ったことがある。(中世の列島史で「日本史」「日本像」ということ自体が妥当と思わない。)日本の中世は国風文化が栄え、武士が台頭し天下を取り合い鎖国へ向かう「日本的な要素が煮詰まる」歴史が先行するが、授業の日本中世史にはグローバルで多民族な海洋交易国家としての日本列島があった。誠意を持って書かれた教科書の「日本史」を否定する気はない(日本の加害の歴史を否定する歴史修正主義に基づいた教科書はもちろん除く)ものの、グローバル海洋国家もまた列島史の重要な一側面だ。歴史は見たいもの信じたいものだけを見せてくれる時がある。権力が示す「日本史」だけを信奉するのは偏狭で頑迷で何よりとても危険だ。翻って、国家が教えたい「歴史」からは女性だけではなく、先住民や在日外国人、被差別者つまりマイノリティが周縁化され排除されている。歴史を考える時、この視点を絶対に忘れてはいけない。

しかし残念ながら「日本史」の日陰に追いやられたままだ。(この点については、記事『本土の和人、ウポポイへ行く』ですでに述べた。)日陰どころか闇に葬られているに近い。なぜなら、歴史修正主義が幅を利かせている時代だからだ。今回の企画展では女性の被差別史が日の目を見たが、今後は先住民族をはじめとする社会的マイノリティの排除の歴史やマジョリティによる加害の歴史に焦点をあてなければならない。歴史修正主義が台頭する現在だからこそ必要であるにも関わらず、修正主義とその信奉者がそれを阻むジレンマが既に陥っている。加害の歴史から目をそらしてはいけない。それと向き合うことは自虐ではない。歴史に対する最大の敬意だ。

この現実に対してささやかな希望を見出すこともできたことは言及に値する。『ジェンダー〈性差〉の日本史』図録の最初のページの「ごあいさつ」でこの点について触れられていることだ。国立博物館の企画展示の図録の冒頭でマイノリティやジェンダーの視点に言及されている。歴史修正と差別、排除の時代においてマイノリティとその排除の歴史に光をあてる作業が行われてきたことを希望の灯にして、それを絶やさぬよう学びことあるごとに、ことなくても主張し続けていく。