世界拾遺記

映画ドラマ漫画の感想、博物館訪問記、だいたい同じことを言っている

アニメ『進撃の巨人』The Final Season 70話感想②:ガビ、怒涛のおまゆう特大ブーメラン乱れ投げ

 

 

カヤに怒鳴り散らし糾弾するガビの言葉はすべて、いわゆる「特大ブーメラン」だった。カヤをはじめ、島のエルディア人には先祖の犯したジェノサイドの罪があるとガビは言ったが、それならガビにもその罪は適用されなければならないはずだ。しかし、彼女のロジックでは大陸エルディア人には適用されない。

彼女は「善良なエルディア人」を自称し壁内人類の罪深さを悪魔の形相でまくしたてたが、丸腰と思われる警備兵を撲殺した人間のどこが「善良」なのだろう。人生で犯した罪の有無でいえば、ガビの方がよっぽど罪深い。

70話後半はとうとうガビの「善良なエルディア人思想」の矛盾が突かれる展開となった。特にカヤとガビの問答についてそれぞれ論点を整理し問題点を考えたい。

 

 

ガビの主張とその問題点

まずガビは、「島の悪魔」を殲滅すれば大陸に残されたエルディア人は「悪魔」とは違う善良性が認められ収容区から解放されると信じているが、「島の悪魔」がいなくなれば憎悪の対象が大陸エルディア人に集中し、世界の敵ポジションも引き継がされるのがオチだ。エルディア人が隔離収容され人権剥奪状態なのも、島のエルディア人のせいではなくマーレをはじめとする非エルディア人のせいだ。

70話感想①で「善良なエルディア人思想」を語るガビからファルコら候補生三人は目をそらし口を閉ざしており、ガビと彼らは思想を共有していないと指摘したが、彼ら三人に言論の自由があったら大体この内容を言っていただろう。

ガビの、エルディア人のかつての戦争犯罪を責め、カヤのなぜ「悪魔の民族」呼ばわりなのかわからないと言った発言に激高するその口ぶりはまるで彼女はマーレ人であるかのようだが、エルディア人から人権を剥奪して収容し、本人の意思と関係なく無垢の巨人にして戦場で使い捨てるマーレの加害行為についてはまったく触れさえしない非対称性がある。

何千年も前からのエルディア人のジェノサイドをはじめとする残虐非道な行いは、到底許されるものではない。それはガビの主張する通りだ。だが、100年前に始祖の巨人と一部のエルディア人をパラディ島に移し、地ならしの潜在的脅威に世界を晒したのは当時のフリッツ王であり移住した人々に罪はない。それに、実際は巨人大戦を終結させマーレに引導を渡した人物こそフリッツ王で、しかも不戦の契りで地ならしの潜在的脅威はそもそも存在しなかった。

ガビはヴィリー・タイバーの舞台でそれを知ったにもかかわらず、彼女の信奉する思想にとって、自分たちが理不尽な思いをしているのは「島の悪魔」が100年前に犯した罪のせいでなくてはならないために、その歴史を受け入れることを拒否している。深く考える暇もなく襲撃され今に至るからといって、ジークが裏切者だった衝撃の新事実には固執しているのに、忌むべき壁の王こそ真の英雄だった衝撃の新事実にはもはや眼中にない。ガビは自分の思想や、そこから派生した信念に適う情報を取捨選択してしまっている。信じたいものだけを信じてしまっている。

ガビの信じたいものだけを信じる傾向はこれが初めてではない。アニメ67話『凶弾』で、ファルコの「敵もマーレの戦士から攻撃されて大勢殺されたからその報復で」に対し見てない(から信じない)としている一方で、ジークが殺される瞬間や遺体を確認したわけでもないのにジークが殺されたとしてパラディ島に報復する動機づけにしている。自分の思想や行動を正当化するものだけを無意識に選び取っている。信じたいものに吸い寄せられるのは人の性(さが)だ。自覚的にコントロールできないと、歴史修正主義に走ったりとかなり危うい事態を招きかねない。おい、てめえのことでもあるぞ本邦。

 

 

カヤの主張とその問題点

何千年も前のジェノサイドや100年前から世界を地ならしの潜在的脅威に晒した罪で責め立てるガビに対し、カヤは先祖の犯した罪で子孫が裁かれる理不尽を追及しガビの矛盾を突き、黙らせてしまった。確かに、自分では選ぶことも変えることもできない出生ガチャで、かつての戦争で重篤な加害行為に及んだ先祖の子孫に生まれた(これを市民権ペナルティと言う)だけで断罪されるのは、筋違いであり理不尽だ。しかし、それはカヤのように加害の歴史に無知で、知らぬ存ぜぬでいることへの免罪符にはなり得ない。過ちを繰り返さぬよう、過去の戦争や加害行為について真摯に向き合い学ぶ責任はあるからだ。そして過去の戦争加害を学ぶことは決して「自虐」などではない。これ抜きに被害国との信頼関係を回復することはないからだ。おい、聞いてるかそこの島国。歴史修正して教科書書き換えてヘイトまき散らす真逆の行為に及んでいるそこのお前のことだぞ。

ガビの指摘する「100年前の罪」は、世界を地ならしの恐怖に陥れたという点では間違っていた。マーレは100年前の建国の時点で不戦の契りを知っており、地ならしは起き得ないと知りながら英雄ヘーロスのマーレ建国神話とエルディア人=スケープゴートシステムの構築・維持のために隠蔽したことが元凶だった。しかし、壁の王が民から記憶(=歴史)を奪い「束の間の楽園」に引きこもり、戦争責任を放り投げ戦争加害からも目を背けたことは十分に「罪」になる。

カヤが過去のエルディア人の蹂躙の限りについて無知なのは教育のせいであり、彼女自身を責めるには不条理だが、戦後生まれでも「過去の加害に無知である」や「過去の戦争加害を否定して捻じ曲げる」、「かつての被害者を嘘つき呼ばわりする」といった二次加害には及べてしまう。過去と無縁でいることは無責任だ。おい、聞いてるか「歴史””戦””」を展開して世界から顰蹙を買っているそこの島国。てめえのことだぞ。血税で何てことしやがる。

『進撃』の世界が拗れている原因の一つは、誰も戦争責任を取っていないことにある。その結果誕生したのが、パラディ島を戦争責任やこの世の理不尽の不法投棄場にすることでそれ以外の世界が円滑に回る地獄のようなこの世界システムだった。「エルディア人に生まれた罪」で生まれたときから裁かれ続ける人々の存在によって成り立つ歪んだ世界だ。戦争責任を放棄しているのは、エルディア帝国と歴代の王だけのことではない。言うまでもなくマーレもそうだ。おい、てめのこともだぞ、隣国へのヘイトを国内世論のガス抜きと国民の目を失政から逸らさせる道具にしてる島国。

日本社会にも「エルディア人に生まれた罪」に置き換わる差別は多くある。「女に生まれた罪」「在日に生まれた罪」「先住民に生まれた罪」「外国人の親を持つ罪」、どれもマジョリティの特権を維持するための理不尽な罪だ。

 

 

「話し合い」で炙り出された矛盾

『進撃』では「話し合い」という言葉が頻出してきた。アルミンの話し合いでの解決や理解を求める姿勢は、何の成果もあがっていないとよく言われる(し実際そうだ)が、ガビの思想の歪んだ矛盾は、殺し合いでも虐殺でもなく、パラディ島で「島の悪魔」と直接話し合うことで彼女自身に突き付けられた。

戦後ドイツにおけるナチの加害行為との対峙は、被害国・民族との歴史認識と歴史教科書の記述に関する対話によって遂行された。国内のバックラッシュへの厳格な対応もあり、信頼を回復して侵略戦争では成し遂げられなかった欧州を束ねる地位を築いた一端を担ったのは話し合いだ。話し合いは時間もかかるし、暴力に訴えるよりはるかに目に見える成果は乏しく感じられることも多いが絶対に軽んじてはいけない。