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アニメ『進撃の巨人』感想④:『誰かにとっての「正義」は他の誰かにとっての「悪」』なんてクソ食らえ

正義について考え続けろ

進撃の巨人』アニメThe Final Season の広告ポスターに正義と悪の字が逆さに大きく書かれたものがあった。この世には「正義」も「悪」も無いとか、立場が違えば「正義」も「悪」になる、多様な「正義」を認め合えれば争いはなくなるとか、本当にこの国の人間は正義が嫌いで嫌いで仕方がないようだ。逆張り根性ほどダサいものはない。いくら作品が素晴らしくても、受け手や社会が未熟では作品の価値が損なわれてしまう。

果たして「正義」も「悪」も存在しないのだろうか。誰かにとっての「正義」は他の誰かにとっての「悪」で、誰かにとっての「悪」は他の誰かにとっての「正義」だからこの世に正義はないし、正義を追求することは無駄なのだろうか。

 

 

不寛容には不寛容を

多様性という言葉はとても響きが良い。多様性は言った者勝ち状態で、多様性を否定した方が自動的に多様性を認めない偏狭で排他的な思考の持ち主だと「悪」になる。最近では、差別も思想の多様性の一つだと免罪符としても機能し始めている。『進撃』の文脈で言えば、エルディア人を「悪魔の末裔」と呼び収容区に押し込み公民権を剥奪するのも多様性として認められるべきとなってしまう。

言うまでもないが、差別も多様性というのはありえない。哲学者カール・ポパーの寛容のパラドクスというのがある。不寛容にも寛容な社会はいずれ不寛容な社会になってしまうため、寛容な社会を維持するには不寛容には不寛容でなければならない。多様性という言葉は諸刃の剣だ。使う人間によって毒にも薬にもなる。

 

 

相対主義という思考停止

それだけでなく、多様性は相対主義でもある。相対主義とは、物事への捉え方は人それぞれであって正しさは存在しないという考え方だ。古代ギリシアのポリス、アテナイソフィストが弁論で他者を言いくるめる方法として発達させ、それを批判し普遍的な正しさを求めたのがソクラテスだった。「みんな違くてみんな良い」、誰かにとっての「正義」は他の誰かの「悪」で誰かにとっての「悪」は他の誰かにとっての「正義」といった具合に、何もかもを無条件に許容することであり、思考放棄だ。相対主義は、差別主義者の常套句「反差別は差別」を生んだ。

島のエルディア人は「悪魔」だから殲滅されてよいとか、子どもを大量虐殺兵器にするとか、イデオロギーのために歴史を捏造するとか、国家のために戦死すると「英霊」になれて名誉なことだとか、安楽死を強制するとか、自由のために世界を滅ぼすとか、これらを多様な「正義」(または「悪」)として何も考えずに肯定し合ったり、どっちもどっちで片付けてよいものだろうか。思考停止することが争いのない理想の世界へと前進するのだろうか。

 

 

多様性の罠

政治学ポリアーキーという考え方がある。戦争も差別も格差もない完全無欠の平和で理想的な社会は達成されることは極めて困難で、現実的に考えて不可能に限りなく近い。しかし、その理想に向かって思考を止めず実践し続けることで少しでも理想に近づき、常にその時で最善の社会が達成されるというものだ。「みんな違ってみんな良い」と多様性の無条件肯定はその対極にある。

多様性という言葉は社会をより良いものにするのに必要な思考を奪う罠がある。

マーレの戦士たちが始祖奪還の命を帯びて壁を破り壁内人類を大量虐殺したのは、彼らにも選択肢はない仕方のないことだったし、何もしなければ世界が島を攻撃してくるから民間人ごと蹂躙したのも仕方なかった。戦争なんてそんなもの。どっちが悪いとか、どっちが被害者で加害者かなんて白黒つけられない。こんなものは思考停止だ。

本来守られて然るべき子どもに大量殺戮をさせるのも、丸腰の民間人を宣戦布告も無しに襲うのも、島のエルディア人に生まれるという出生ガチャを引いただけの人を「悪魔」と蔑むのも、エルディア人を収容区に押し込み人権を奪うのも悪だ。人それぞれの「正義」があるそれが戦争しょうがない、なんてのが許されるのはせめて小学生の読書感想文が限界だ。

普遍的な正しさを常に追求し、その正しさが機能しているか常に考え続ける全然ラクじゃない姿勢が社会を好転させ理想へと近づける。

 

 

 

アニメ『進撃の巨人』The Final Season 70話感想②:ガビ、怒涛のおまゆう特大ブーメラン乱れ投げ

 

 

カヤに怒鳴り散らし糾弾するガビの言葉はすべて、いわゆる「特大ブーメラン」だった。カヤをはじめ、島のエルディア人には先祖の犯したジェノサイドの罪があるとガビは言ったが、それならガビにもその罪は適用されなければならないはずだ。しかし、彼女のロジックでは大陸エルディア人には適用されない。

彼女は「善良なエルディア人」を自称し壁内人類の罪深さを悪魔の形相でまくしたてたが、丸腰と思われる警備兵を撲殺した人間のどこが「善良」なのだろう。人生で犯した罪の有無でいえば、ガビの方がよっぽど罪深い。

70話後半はとうとうガビの「善良なエルディア人思想」の矛盾が突かれる展開となった。特にカヤとガビの問答についてそれぞれ論点を整理し問題点を考えたい。

 

 

ガビの主張とその問題点

まずガビは、「島の悪魔」を殲滅すれば大陸に残されたエルディア人は「悪魔」とは違う善良性が認められ収容区から解放されると信じているが、「島の悪魔」がいなくなれば憎悪の対象が大陸エルディア人に集中し、世界の敵ポジションも引き継がされるのがオチだ。エルディア人が隔離収容され人権剥奪状態なのも、島のエルディア人のせいではなくマーレをはじめとする非エルディア人のせいだ。

70話感想①で「善良なエルディア人思想」を語るガビからファルコら候補生三人は目をそらし口を閉ざしており、ガビと彼らは思想を共有していないと指摘したが、彼ら三人に言論の自由があったら大体この内容を言っていただろう。

ガビの、エルディア人のかつての戦争犯罪を責め、カヤのなぜ「悪魔の民族」呼ばわりなのかわからないと言った発言に激高するその口ぶりはまるで彼女はマーレ人であるかのようだが、エルディア人から人権を剥奪して収容し、本人の意思と関係なく無垢の巨人にして戦場で使い捨てるマーレの加害行為についてはまったく触れさえしない非対称性がある。

何千年も前からのエルディア人のジェノサイドをはじめとする残虐非道な行いは、到底許されるものではない。それはガビの主張する通りだ。だが、100年前に始祖の巨人と一部のエルディア人をパラディ島に移し、地ならしの潜在的脅威に世界を晒したのは当時のフリッツ王であり移住した人々に罪はない。それに、実際は巨人大戦を終結させマーレに引導を渡した人物こそフリッツ王で、しかも不戦の契りで地ならしの潜在的脅威はそもそも存在しなかった。

ガビはヴィリー・タイバーの舞台でそれを知ったにもかかわらず、彼女の信奉する思想にとって、自分たちが理不尽な思いをしているのは「島の悪魔」が100年前に犯した罪のせいでなくてはならないために、その歴史を受け入れることを拒否している。深く考える暇もなく襲撃され今に至るからといって、ジークが裏切者だった衝撃の新事実には固執しているのに、忌むべき壁の王こそ真の英雄だった衝撃の新事実にはもはや眼中にない。ガビは自分の思想や、そこから派生した信念に適う情報を取捨選択してしまっている。信じたいものだけを信じてしまっている。

ガビの信じたいものだけを信じる傾向はこれが初めてではない。アニメ67話『凶弾』で、ファルコの「敵もマーレの戦士から攻撃されて大勢殺されたからその報復で」に対し見てない(から信じない)としている一方で、ジークが殺される瞬間や遺体を確認したわけでもないのにジークが殺されたとしてパラディ島に報復する動機づけにしている。自分の思想や行動を正当化するものだけを無意識に選び取っている。信じたいものに吸い寄せられるのは人の性(さが)だ。自覚的にコントロールできないと、歴史修正主義に走ったりとかなり危うい事態を招きかねない。おい、てめえのことでもあるぞ本邦。

 

 

カヤの主張とその問題点

何千年も前のジェノサイドや100年前から世界を地ならしの潜在的脅威に晒した罪で責め立てるガビに対し、カヤは先祖の犯した罪で子孫が裁かれる理不尽を追及しガビの矛盾を突き、黙らせてしまった。確かに、自分では選ぶことも変えることもできない出生ガチャで、かつての戦争で重篤な加害行為に及んだ先祖の子孫に生まれた(これを市民権ペナルティと言う)だけで断罪されるのは、筋違いであり理不尽だ。しかし、それはカヤのように加害の歴史に無知で、知らぬ存ぜぬでいることへの免罪符にはなり得ない。過ちを繰り返さぬよう、過去の戦争や加害行為について真摯に向き合い学ぶ責任はあるからだ。そして過去の戦争加害を学ぶことは決して「自虐」などではない。これ抜きに被害国との信頼関係を回復することはないからだ。おい、聞いてるかそこの島国。歴史修正して教科書書き換えてヘイトまき散らす真逆の行為に及んでいるそこのお前のことだぞ。

ガビの指摘する「100年前の罪」は、世界を地ならしの恐怖に陥れたという点では間違っていた。マーレは100年前の建国の時点で不戦の契りを知っており、地ならしは起き得ないと知りながら英雄ヘーロスのマーレ建国神話とエルディア人=スケープゴートシステムの構築・維持のために隠蔽したことが元凶だった。しかし、壁の王が民から記憶(=歴史)を奪い「束の間の楽園」に引きこもり、戦争責任を放り投げ戦争加害からも目を背けたことは十分に「罪」になる。

カヤが過去のエルディア人の蹂躙の限りについて無知なのは教育のせいであり、彼女自身を責めるには不条理だが、戦後生まれでも「過去の加害に無知である」や「過去の戦争加害を否定して捻じ曲げる」、「かつての被害者を嘘つき呼ばわりする」といった二次加害には及べてしまう。過去と無縁でいることは無責任だ。おい、聞いてるか「歴史””戦””」を展開して世界から顰蹙を買っているそこの島国。てめえのことだぞ。血税で何てことしやがる。

『進撃』の世界が拗れている原因の一つは、誰も戦争責任を取っていないことにある。その結果誕生したのが、パラディ島を戦争責任やこの世の理不尽の不法投棄場にすることでそれ以外の世界が円滑に回る地獄のようなこの世界システムだった。「エルディア人に生まれた罪」で生まれたときから裁かれ続ける人々の存在によって成り立つ歪んだ世界だ。戦争責任を放棄しているのは、エルディア帝国と歴代の王だけのことではない。言うまでもなくマーレもそうだ。おい、てめのこともだぞ、隣国へのヘイトを国内世論のガス抜きと国民の目を失政から逸らさせる道具にしてる島国。

日本社会にも「エルディア人に生まれた罪」に置き換わる差別は多くある。「女に生まれた罪」「在日に生まれた罪」「先住民に生まれた罪」「外国人の親を持つ罪」、どれもマジョリティの特権を維持するための理不尽な罪だ。

 

 

「話し合い」で炙り出された矛盾

『進撃』では「話し合い」という言葉が頻出してきた。アルミンの話し合いでの解決や理解を求める姿勢は、何の成果もあがっていないとよく言われる(し実際そうだ)が、ガビの思想の歪んだ矛盾は、殺し合いでも虐殺でもなく、パラディ島で「島の悪魔」と直接話し合うことで彼女自身に突き付けられた。

戦後ドイツにおけるナチの加害行為との対峙は、被害国・民族との歴史認識と歴史教科書の記述に関する対話によって遂行された。国内のバックラッシュへの厳格な対応もあり、信頼を回復して侵略戦争では成し遂げられなかった欧州を束ねる地位を築いた一端を担ったのは話し合いだ。話し合いは時間もかかるし、暴力に訴えるよりはるかに目に見える成果は乏しく感じられることも多いが絶対に軽んじてはいけない。

 

 

アニメ『進撃の巨人』The Final Season 70話感想①:ガビとファルコの思想の違い ーなぜファルコはエレンとライナーの会話を理解できたのか

 

目次

 

ガビの「善良なエルディア人思想」の妄信

一見、ガビの思想は過激で偏重で彼女をなだめるファルコと比べると、さらにガビが際立って感じてしまう。ガビの思想がマーレの軍国主義教育の「賜物」で、それがマーレのエルディア人が持っていなければならない思想であることは間違いない。

戦前の日本でも、男子は立派な兵隊になって祖国のために死んで「英霊」となることこそ名誉だとか、敵国の捕虜になるくらいなら自決しろとか胸糞悪くなる思想が腐るほどある。

エルディア人は何千年も世界を蹂躙し民族浄化

同化を繰り返し数多の文化を滅ぼしてきたあげく、最後は島にずらかり地ならしの潜在的恐怖に100年間世界を陥れたのだから、その罪を大人しく認めて罰を甘んじて受け入れろ。そして自分たち大陸エルディア人が「島の悪魔」を皆殺しにして世界を救えば、自分たちは「善良なエルディア人」と認められて収容区から解放される。自分たちが収容区に押し込められ人権が剥奪されたのは、すべて「島の悪魔」のせい。

これがガビの妄信する思想の大体の要約になる。ガビの思想がマーレの教育内容と一致することを認めながらも、敢えて「妄信」と表現したのはファルコ、ウド、ゾフィアはこの思想を鵜呑みにはしていないからだ。

 

 

ファルコのガビの思想に対する態度

まず、アニメ60話の冒頭、塹壕シーンで手榴弾をまとめながらガビが「島の悪魔」を皆殺しにして収容区を解放する覚悟について嬉々として語っているが、ファルコら候補生3人は無言で目を逸らしている。島のエルディア人を殲滅したところで大陸エルディア人の待遇が改善するわけないとわかっているからだ。

しかし、そうガビに反論するのはマーレへの反逆になるため皆、口をつぐむしかない。もし彼らもガビ同様の思想の持ち主なら、無邪気に皆殺しの夢を語り合ってもいいはずなのにそれは無く、ただひたすらに気まずい沈黙だけが立ち込めている。

 

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【60話】ガビ「善良なエルディア人」演説中の他3名

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【60話】ガビ「善良なエルディア人」演説を受けて目をそらす3名

 

この一人浮いた状態はかつてのライナーもそうだった。アニメ62話、パラディ島でマルセルがライナーに懺悔し彼をかばってユミル巨人に食われたあのシーンの少し前、壁破壊実行を前日に控えて焚火を囲む戦士4人のうち、ライナー以外の3人はまさに葬式状態だ。待ちに待った「悪魔」成敗の日、という興奮は見当たらない。

 

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壁破壊前夜のベルトルト

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同シーンでのマルセル

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同じくアニ


待ちに待った「島の悪魔」成敗の日を控えてためらうかのような葬式状態の他3名に対し、ライナーは立ち上がり、ガビさながらに「まさか島の悪魔を殺すことをためらっているのか?」「ヤツらが何をやったのか忘れたのか?」「俺たちは世界を代表して悪魔を裁くべく選ばれた戦士なんだ」とまくしたてる。

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壁破壊前夜に一人意気込むライナー

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一人立ち上がりパラディ島攻撃の正当性を語るライナー

ガビのときと同じく、それを受けてのリアクションはネガティブで、とうとうマルセルが「弟を守りたかった」と告白してしまう展開になる。さらに、アニも「マーレもエルディアもみんな嘘つき」と絶叫している。マーレの思想を妄信していたら出ないはずの言葉であり、マーレの監視外で本音を漏らした瞬間だった。

 

 

ブラウン家の家庭環境

では、なぜこれほど差がついたのか。家庭環境によるものだと推測する。ライナーはマーレの「善良なエルディア人」思想をベッドタイムストリーにして育てられ、ガビは恐らくマーレの思想だけでなく「戦士になって『悪魔』を成敗しにいった英雄の従兄」の話を聞かされ、ガビも従兄の後に続けと言われて育ったに違いない。この「英才教育」と言論の自由の制限が、ツッコミどころしかない「善良なエルディア人思想」を肥え太らせていったのだろう。全体主義の機能の仕方の一端を垣間見た気がしてくる。

ライナーの親もガビの親もとんでもない毒親だ。家族であれば普通、年端も行かないうちから殺戮兵器として戦場で使い倒され13年で死ぬような人生を歩ませたいとは思わない。親が自分の恨みや復讐を果たすために子供を駆り立てるな。子供は親の所有物でも、延長でもない。ライナーとガビの戦士志願動機だけ他より異質なのは、毒親の願いを叶えるために設定されている(いた)からだ。本来は家族の身の安全を得るために戦士に志願している。

 

 

ファルコがエレンとライナーの会話を理解できた理由

パラディ島での4年前のマーレの作戦に巻き込まれた少女、カヤに助けられ匿われても頑なに「島の悪魔」と言い続けたガビと対照的に、ファルコは目の前で故郷が蹂躙された直後でもエレンとライナーの地下室での会話から、ガビに島のエルディア人もマーレの戦士に蹂躙されたから報復に来たのだと語っている。ファルコのこの理解の早さは単に彼が飛びぬけて柔軟な思考と賢い頭脳の持っているからだけだろうか。

ファルコは戦士候補生の最後の4人に残るほどに十分頭も切れることに異論はないが、ガビと同じマーレによる思想教育を受けているはずのファルコがエレンに同情でき、都合よくガビとの比較になるような異なる考え方をエレンとライナーの会話から瞬時に身に着けられたのは彼の優秀さゆえで片づけてしまうは不十分だ。

キャラクターの性格が表れた描写や伏線を全く無視してしまっている。それではあまりにもストーリー展開としてはお粗末であり、『進撃』はそんな雑で大雑把な作品ではない。

 

 

ファルコの思想とは

ファルコがエレンとライナーの会話からなぜライナーが取り乱したのかを察したのは、彼には元々、理解できるだけの下地が培われていたからだ。上記ですでに彼はガビのようにマーレの思想に取り憑かれてはいなかったことを確認しておく。

まず、アニメ61話『闇夜の列車』で、列車下車後のモノローグにおいてファルコはエルディア人を戦争から解放したいと願っていることが語られている。さらに、アニメ60話の塹壕シーンで、エルディア人部隊800人の突撃(というかもはや特攻)の代わりに顎と車力の投入を提案したコルトへのマガトの「上に立つ者として戦争勝利のためにエルディア人を突撃させ死なせる覚悟を持て」という趣旨の言葉にコルトだけでなく、ファルコも顔をしかめている。

 

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【60話】「お前も獣を受け継ぐ身ならいいかげんに上に立つ者としての覚悟を持て」と言われ顔をしかめるコルト

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【60話】「覚悟を持て」を受けて兄同様眉間にしわを寄せるファルコ

 

顔をしかめたのは上官に叱責されたからではない。コルトは榴弾が降り注ぐ前線での塹壕掘りや胴体に爆弾を括りつけての自爆突撃を回避するために進言し続けており、無謀な作戦でエルディア人が使い捨てられ傷つけられる戦争に言えないだけで良く思っていないことがわかる。

アニメ62話、列車の中での(ガビが)「同胞800人の命を『救った』」という言葉遣いにもそれが表れている。マーレの思想教育にもろに感化されていれば、「祖国の勝利に貢献したガビ」になるはずだ。実際、ガビの動機はエルディア人の救命のためではなく、自分の能力のアピールと祖国への貢献のためだ。

グライス家はエルディア復権派の逮捕者を出したとして子供たちを戦士候補に差し出すことを余儀なくされた家だが、兄弟からはその復権派の残滓とでも言うべきものを感じずにはいられない。

その他にも、ファルコはケガした敵兵を率先して手当したり(60話)、収容区で負傷兵を労わったり(61話)、クルーガー負傷兵に「あなたはもう戦わなくていいのだから」と声をかけている。彼には敵味方関係なく戦争で傷ついた人に心を砕き、寄り添う姿勢がある。戦争は味方が傷つくだけでなく同様に敵も傷ついていてそこに敵味方はないと、地下室での会話以前に少なくとも感覚的には認識していたはずだ。だからこそ、ライナーにもエレンにも理解を示すことはできたのではないだろうか。

ファルコの行動原理は一貫して戦争で傷つく人を減らしたい、にある。『凶弾』において、ファルコは飛行船でサシャが撃たれてとっさに銃を構えたジャンにではなく、次弾を装填して再度狙いを定めたガビにやめさせるために飛び掛かっている。70話でもファルコはガビが人を傷つけるのを全力で止め続けていた。彼が鎧を継承したいのもライナーを戦闘からそっとしておいたのも、戦争で傷つく人を減らしたいという動機による。

このように、ファルコがガビとは対照的にエレンの母親を殺された話にエルディア人の罪に対する罰だと激高せず、パラディ島の被害に理解が及んだのは、彼は戦争で傷ついた人に敵味方の分け隔てなく寄り添う広い心と反戦思想がある。これがファルコに「敵」の被害に心を痛め理解を示す動機となっている。

 

 

 (画像出典)

Netflix配信 アニメ『進撃の巨人』The Final Saeson より60話、62話

 

 

アニメ『進撃の巨人』The Final Season 69話「正論」感想:「想像の共同体」

 

目次

 

 

「そもそも国ってのがまだわからんなあ」

そ れ な

駐屯兵団のオッサンがぼやいた「そもそも国ってのがまだわからんなあ」の言葉にクソデカ声で「それな!!」と叫んでしまった。外部世界と接触しての「国って何」の感想には身に覚えがありすぎた。2年前の私かよ。まさかこれだけ魅力的なキャラクターが登場するのに、モブオッサンのモブいセリフに大興奮するなんて。

単身ユーラシア大陸渡航して陸路で国から国へと移動していたときに、360度見渡す限り同じ草原が広がっているのに国境で仕切られている一方ともう一方では、言葉も文化も住んでいる人々も異なっている。国って何だ、何様なんだと思った。島国・日本で生まれ育って他国と地続きで隣り合うというのを初めて目の当たりにしたのも影響していた。

兵団のオッサンのためにも帰国後に調べた国とは何かの一応の回答を自分のためにも記しておきたい。というのは建前で、今ではすっかり国境や辺境、国民国家ナショナリズム、民族アイデンティティにどっぷりな人間の早口オタク語りがしたい。

 

駐屯兵団のオッサンが口にした「国」:主権国家

現代に生まれた我々にとって国家とは地球に空気があるようにあたりまえの存在として受け入れている。しかし、現在のこの主権国家体制は宗教改革に端を発する30年戦争の講和条約で、1648年に締結されたウェストファリア条約がきっかけで成立していったもので、ウェストファリア体制とも言われるもので、帝国主義を掲げた主権国家である西洋列強の台頭により強者が世界のスタンダードとして採用されていった人類史において最近の制度だ。

近代以前も国家は存在したが、それらは主権国家ではなく封建制国家だった。主権国家は国民を創り出す装置である点において封建制とはまったく異なる制度だった。主権国家は標準語教育や歴史教育を通して愛国心を育て、一生顔を合わせる機会もない大多数の人間と同じ国民意識を共有させる。それゆえ、主権国家国民国家ともいう。これはアンダーソンの『想像の共同体』に詳しい。私のバイブル。

国民意識の創生について例として日本について考えてみると、江戸時代では日本列島の本土は徳川幕府支配下にあったが、封建制でそこに暮らす人々は薩摩の人間とか長州の人間であるとかの認識はあっても、前述のような一生出あうこともない大多数の人間と同じ国民意識を共有し、「想像の共同体」としての日本人、日本国民という意識はなかった。それが西欧列強との接触で、列強からの植民地支配を回避するために革命が起き、列強の国家システムである主権国家を採用して明治政府が誕生した。明治政府は近代主権国家に必要不可欠な税制・軍制・官僚制を整え、標準語を作り日本史と共に学校で教えられ「日本国民」が創られていった。「想像の共同体」作りは、内国植民地だった沖縄と北海道、植民地の台湾や朝鮮半島樺太にもおよび、彼らの文化や言語を奪っていった。ということで、今日私たちが抱いている「日本人」というアイデンティティは、明治から始まったものであり「江戸時代の日本人」といった言葉は正確さに欠ける。

 

強者のルールへの強制

明治時代の日本そうだが、パラディ島も強者に蹂躙されないために、強者の作った強者のルールへの適応を半ば強制的に求められており、そこに拒否権はない。ましてやパラディ島は主権国家運営の専門家がいるわけでもなく、強者のルールの中身がいまだに不明なままで、プロ相手に勝たなければならず、制度面でもかなり理不尽な状況に置かれている。

 

「人類」から「エルディア人」へ

壁は島に建っていて海の外には人がいる、それを知るまで壁内の人々は自分たちを単に「人類」と呼んでいた。陸の孤島のような地域に暮らしてきた少数民族の呼び名が彼らの言葉で人間を意味するのと同じだ。東洋人やアッカーマンの例外を除けば、人類を区別する言葉をほとんど持ち合わせていなかった。出身居住地域でマリア人とかシーナ人とも区別していなかった。外の世界を知ったことでそこでの呼称を採用する形でエルディア人、ユミルの民という新たなアイデンティティの芽生えがもたらされていった。

マーレ編ではもうパラディ島の少なくとも兵士たちは、もう人類とは自称していない。エルディア人やユミルの民と名乗っている。エゴを言えば、エルディア人というアイデンティティは市井の一般市民にも共有されているのかがとても気になっている。教育は変わったのかとか、もっと一般人の生活を覗きたい。

 

鉄道建設

「夕日のせいだよ」が飛び出したのが鉄道だったのはたまたま鉄道だったわけではない。鉄道は61話「闇夜の列車」のように兵士の移送手段と、原料や出来上がった製品を運ぶために不可欠なインフラとして選ばれている。軍事と産業、つまり「富国強兵」を支えるインフラが鉄道だ。

現在も一部の国(トルクメニスタンなど)では鉄道駅を写真に撮ることは国家の軍事機密漏洩にあたるとして固く禁じられている。パキスタンの空港で暇つぶしに、お絵かきド素人私がHOT LIMITを聞きながら施設のほんの一部をスケッチしていたら、銃を担いだ軍人さんに注意されてしまったことがある。それくらい輸送手段は国家の最重要(軍事)施設だ。

産業面での例でいうと、明治時代に日本で建設された初期の鉄道路線の一つに、1884年明治14年)に開通した高崎と横浜を結ぶルートがある。これは当時の主要輸出産業であった生糸をその産地から港のある横浜へ運ぶためのものだった。

 

 

優秀な人間を13年で死なせるマーレ

優秀な人間を使い捨てるという搾取

コニサシャの漫才に「夕日のせいだよ」で霞みがちだが、進撃の巨人の継承者に名乗り出たジャンにコニーが優秀な人間を13年で死なせるわけにはいかないと、マーレの戦士選考基準を全否定していた。

エルディア人がエルディア人のために巨人を運用するのと、支配者が被支配者の巨人を使役するのとの違いがよく表れていたように思う。マーレが肉体も頭脳も優れた人材に巨人を継承させるのは一見妥当だが、優秀なエルディア人を使い捨てられるマーレの立場の強さが反映されたものであり、ある種の搾取だ。

トランプゲームの「大富豪」で大貧民が大富豪に一番強い手札を差し出さなければならないのの人間版だ。さらに、この選考は結果として将来の反乱リーダーの可能性もある優秀な被支配民を若いうちに摘み取る機能もあるように思う。

 

家族のために戦う戦士、家族を失い戦う兵士

個人的に、マーレの戦士選考基準の第一段階は家族の有無だと考えている。戦士の家族は人質だ。孤児ではその「枷」がない。61話「闇夜の列車」でエルディア人戦士たちが故郷に帰還した束の間の「団らん」が描かれたが、あれは家族をマーレに人質を取られている現状の再確認をさせられているようにしか見えなかった。戦場で空から降ってくる巨人兵器を目の当たりにしてからでは尚更、否が応でも意識せざるを得ないだろう。拘束着とパラシュートを身に着けたあの列に家族を加えないためにも、爆弾を巻き付けて突撃しなければと。

マーレの戦士の家族を強調される一方で、パラディ島の兵士には家族の影が薄く孤児も多い。エレン、ミカサ、アルミンは孤児であり、調査兵団を見据えて訓練兵に志願する彼らを止めたり、心配する人はもういなかった。104期の主要メンバーではエレンら3人の他にライナー、アニ、ベルトルト、ユミルが孤児(という設定)で、ヒストリアも実質的に保護者がいないに等しかった。エレンもミカサもアルミンも理不尽に保護者を失くしているのに、そのトラウマに悩む描写や理不尽に憤る描写はとても少ない。

 

 

リプロダクティブライツが存在する羨ましい世界

地ならしの能力を維持するのにヒストリアがジークの獣を継承し、王家の血を引く巨人を絶やさぬよう死ぬまでできる限り子どもを産み続けるというジークの提案に壁内の上層部が難色を示し、島に住む民のためにヒストリアには犠牲になってもらおうとはならず、彼女のリプロダクティブライツが尊重されていて、日本よりよっぽど女性の人権が保障されていた。

壁内の上層部はオッサンばかりなのに、女王には壁の民の統治者として役割を果たしてもらおうとはならなかったのは、女性は「子供を産む機械」ではないことが社会のコンセンサスとして浸透している証左であり、どこぞのヘルジャパンとは天と地の差だ。

 

2000年の「伝統」の否定

巨人を継承させるために産み増やすというのは、おぞましいが始祖ユミルの誕生から約2000年間、脈々と続けられてきた「伝統」でもある。この悪しき「伝統」をこのせいで最も苦しんできた人々が打破しようと思考し解決を模索する姿勢は心底羨ましかった。

最後まで血族間で継承されてきた戦槌の巨人のタイバー家最後の継承者はヴィリーの妹、ラーラだった。彼女は兄の大義を尊重し兄の代わりに戦槌を継承したが、ジークの持っていたタイバー家家族写真に彼女の姿はない。継承者の特定を防ぐ目的でタイバー家息女をメイドにするには、かなり時間と手の込んだ裏工作があったに違いない。

先代を捕食しての実際の継承の数年前から、死んだことにするなどして家族のメンバーから退場させていたのではないだろうか。婚姻で家を出たにしても、エルディア人貴族の婚姻先は限られている。婿養子を取ったことにしてタイバー家領地に暮らしていることにしても、叩かなくてもホコリが出るくらいには不審な結婚生活だ。

一族間継承は、継承者を13年以上に渡り拘束する悪しき陋習だ。継承者以外も安定した継承のために婚姻と多産が絶対で、リプロダクティブライツは無く、自分は継承を免れたことに罪悪感を抱きながら継承の可能性を持った子供を作り続ける地獄の一生が待っている。

しかし、実質的に家畜のように子を産み続けて一生を終える以外の選択肢はなく、多産を否定したところで、それとは対照的にジークの秘策「安楽死計画」のように子孫を残せなくして絶滅を待つか、エレンのように地ならしでエルディア人以外を滅ぼすかなど、同様に悲惨な末路しかない。滅ぼせないほど増やすか、滅びを選ぶか、他者を滅ぼすか、この三択しかないのは地獄以外の何ものでもない。

この場面を見て私の脳裏によぎったのは、王家の血を引く者を1人無垢の巨人にしてソニービーンのように拘束して「王家の血を引く巨人」を確保するというものだった。『進撃の巨人』版「オメラス」(ル=グウィン『オメラスを歩み去る人々』参照)の完成だ。己の思考の畜生ぶりは定期的に戒めていきたい。

 

エルヴィンは間違っていない

ジークの提案に対し、それでは根本解決にはならず問題を先送りにしているだけでそれを子孫に引き継がせることに難色を示し、自分がこんなに辛い思いをしてきたのに後の世代は楽するなんて許せないというような老害マインドとは無縁のハンジを後継者にして死んだエルヴィンは間違っていなかった。

 

 

人類の宝:ジャン・キルシュタイン

同期を戦場に呼んだのはエレンからの信頼の証だと言ったミカサに、ジャンがそれは人を大切にする方法じゃないと意見していて、やっぱり彼は人類の宝であると確信した。デカいのは図体ばかりでない。生きろ。

 

 

(参考文献)

ベネディクト・アンダーソン(1997)『増補 想像の共同体: ナショナリズムの起源と流行』(白石隆・白石さや訳)NTT出版

フィリップ・K・ディックカート・ヴォネガット・ジュニア他(2010)『SF短編傑作選 きょうも上天気』(浅倉久志訳・大森望編)KADOKAWA

 

 

『マンダロリアン』感想ポエム:スターウォーズを好きでよかった

 

母よ、小4の時にスターウォーズを見せてくれてありがとう。まさかのEP6からの鑑賞だったが、おかげさまであれから十数年経った今、素晴らしい作品を楽しむことができています―。

 

 

とうとう観てしまったスターウォーズのスピンオフドラマ『マンダロリアン』。

ディズニープラスでのみシーズン2まで配信中だ。

お噂はかねがね、シーズン2の配信開始に合わせて1か月無料体験を使って登録してしまった。ディズニープラスの致命的な使いずらさはひとまずさておき、『マンダロリアン』は最高だった。ローグワンといい、スターウォーズは銀河に瞬く数多の星々のような名もなき者を描く、創作の豊かな土壌なのだろう。

 

 

あらすじ

帝国が崩壊してから数年、ロンリーウルフな賞金稼ぎマンダロリアン(戦闘民族の名前)は、ある人物を連れてくるよう依頼を受ける。50歳とだけ聞いていた対象は、なんと空飛ぶゆりかごに乗った言葉もしゃべれない赤ちゃん(ベイビーヨーダこと the child)だった。強力なフォースの使い手であることを理由に狙われた赤ちゃんを依頼主に届けるも、依頼主が帝国の残党だと知ったマンドー(マンダロリアンの略称)は赤ちゃんを奪還してしまう。マンダロリアンの教えに従い赤ちゃんを親か同族の元に返すため、一匹狼と赤ちゃんの旅が始まる。

 

 

よし、ロジックなど遠い昔はるかかなたの銀河系に置いてきた。もともとあったもんじゃないが。galaxyに響け!私のお気持ちポエム!

It makes me happy

こんなッ…!こんな 、一匹狼と赤ちゃんの組み合わせが嫌いな生命体このuniverseにおらんだろ、いたら連れてこい案件である。日本語でどう表現したらいいかわからず途方に暮れてしまった。というわけで It makes me happy, yeah. イェアじゃないんだわ。ウーン、こんな時は著作権フリー名言集こと「平家物語」の力を借りよう。心も詞も及ばれね。

高校生の頃、古文の先生が「をかし」と「あはれ」の違いについて、前者が普遍的で誰が見ても美しいもの(例えば桜並木とか)で、後者は個人的に性癖にぶっ刺さって「ンンアァァ~~(心臓を押さえる絵文字)」となるものと説明してくれたのだが、『マンダロリアン』はまさに銀河の生んだ「あはれ」だった。平安時代も21世紀も萌え語りをして世界に発表するのは変わらない(あっちは「をかし」だったが。)

グローグー(ベイビーヨーダの名前)とグローグーのパパになっていくディン(マンドーの名前)、かわいいとかわいいを掛けるともはや凶器になると知った。かわいいの二乗に対し自分は無意識に満面の笑みを浮かべ、歯の隙間から薄く吐くようにイーッヒッヒと発声することも知った。相当不気味なリアクションなので、他人に披露する前に知ることができて本当に良かった。ありがとう、マンドー!

 

 

かわいい その1

アソーカに会って赤ちゃんの名前がグローグーだと知って名前を呼ぶとグローグーがハッと振り向くのがもうめちゃくちゃ可愛かったね!アソーカの実写の再限度の高さに感嘆する暇もなく、

可愛いの 大洪水で響くのは 私の奇声 深夜二時半

どうだ!和歌を詠んでしまったぞ。

ディンがグローグーを何度も呼んで振り向かせては彼の素のような声で笑うのがもうめちゃくちゃ可愛かったね。そのあとグローグーがフォースを使ったときにめっちゃ喜んでたのがもう我が子の活躍を喜ぶパパそのものって感じで可愛かったね。ディンパパが運動会でスマホ構えて身を乗り出す姿が””視え””た。私はその姿を生暖かくガン見したい。語彙がもうfar, far away した。

 

 

かわいい その2

 S2の最後なんて今までずっと守ってきたマンダロリアンの戒律よりグローグーとの素顔での対面の方を選んじゃって涙ぐんでるのみんなにバレてるし(かわいい)、最初はグローグーのこと it 呼びだったのが、kid、budy、palと親密さがマシマシマシマシでねぇ?アソーカに預けるときにゆっくり船内に戻って寝てたグローグー抱っこしてヨシヨシして別れを惜しんでてこっちが2人まとめてヨシヨシペロペロしたくなったわ。させろ。

 ディンパパのアーマーはよくドロドロになってたが、あの言うこと聞かないグローグーと二人きりの船内でどう顔を見られずに手入れをしていたのだろう。あの二人の素顔を見る見せないのトムとジェリーのような攻防を20シーズンぐらい作って欲しい。

 

 

ディンパパがすごくパパしてて、ヨシ!

私の一押しシーンはゲロったグローグーの操縦しながら片手間に口元を拭ってあげてるところだ。子育て小慣れ感がダダ洩れていた。

グローグーがコクピットで遊んだり席でウニャウニャ言ってたり、配線いじって感電したり卵勝手に食ったりするのをたしなめるのがとにかく良かった。ディン自身が愛情深く育てられたのだとよくわかる。

食べ物で遊ぶな、とか本人が言われたりそれを言う大人が周りにいないと出ない発言だ。ディンは両親を帝国軍に殺されそのあとマンダロリアンに引き取られ教育されたわけだが、決して戦闘訓練だけをスパルタ指導されたのではなく、「親子」として養育されたのがディンのグローグーに対する言動から察せられた。フルフェイスのヘルメットに抑揚のない声だからロボットのような印象だけど、全然そうじゃないことが節々から伝わる演出に気が狂いそうだった。

特に、最後にヘルメットを外すシーンはEP6のラストを彷彿とさせる「父子」の交流と別れでこれは制作側も確信犯だろう。

 私にもとうとう母性本能が?と思ったりもしたが赤ちゃんラッコが陸で転がってる動画を見ても同じことを思ったのでたぶん違う。

 

 

まじめ感想もいくぞ

 理性的なタスケンの描写

『マンダロリアン』では、双子の太陽が輝く惑星タトゥイーンがよくでてきた。その中でも、タスケンに対話シーンや共闘する話があったのがとても良かった。タスケンは好戦的で野蛮な種族としての描写が今までは多かったが、それが改善されていて対話をしたり協力したりと理性的な一面が描かれてのはステレオタイプを否定していて特筆に値する。

 

 

アンバランスなグローグーと安定したディン

ディンは不愛想な一匹狼に見えて実は他者と協力したり助けたり案じたりも普通にする情緒のよく発達した人に見える。賞金稼ぎをするには一人が楽だから、くらいのモチベーションの一匹狼で一匹狼界では「ぬるい」部類だろう。むしろ、他人との適切で自分にとって居心地の良い距離感を心得ているようでもある。戦闘能力だけでなく精神的にも自立している。

その一方で、グローグーはディンより年齢だけは上だがその内面はとても不安定だ。言葉がしゃべれないからではない。コルサントジェダイテンプルで訓練を受けていたのに、倫理観や協調性に欠けすぎている。乗客の貴重な卵を盗み食いするくらい善悪判断がつかないものが強力なフォースの使い手だなんて、幼児に実弾こもった拳銃で遊ばせているようなものだ。アンバランスさがいびつで危うい領域に達している。アソーカがグローグーの訓練をためらったのも少しわかる気がしてしまった。

 

 

最後はなんだかんだで理性を取り戻してしまったが、S3を見た暁にはまたロジックとボキャブラリー放り出して疑似親子を愛で狂いたい。ゴールデングローブ賞ノミネートおめでとう!テーマ曲がすごく好きだ!エンドロールのコンセプトアートの画集をくれ

 

 

アニメ『進撃の巨人』The Final Season 67話感想:「英霊」—祖国のための死に駆り立てる装置の登場

フロックの「英霊」発言

灯りに沿って低空で進む飛行船へ、地上での戦闘から兵士たちが続々と引き揚げていく。サシャから把握している限り死者6名と告げられ、自分が指揮した作戦で死者が出たことにうなだれるジャンに対し、フロックが放った言葉が衝撃的だった。

「敵に与えた損害と比べてみろよ。大勝利だ」

「我ら新生エルディア帝国の初陣は大勝利だぞ」

「さあ歓べ。これが6人の英霊への弔いだ」

 「帝国」のために戦士した兵士は「英霊」となる。死んでも「英霊」として神格化され称えられるのは国家への忠誠の模範であり、名誉なのだから国家のために死ね。この犬笛で国民を煽って戦地に送り込み、大半をマラリアなどで病死か、補給を顧みない作戦で餓死させた「帝国」かつてがあった。大日本帝国というのだが。

 

 

大日本帝国の「英霊サイクル」

日本列島には古来から支配者のために戦って死んだ人はごまんといるが、「英霊」と神格化され靖国神社に祀られるのは大日本帝国のために戦死した「日本人」兵士だけだ。かつての大日本帝国には、「英霊サイクル」があった。男子は立派な軍人になって国家、天皇に忠誠を尽くし戦って死に「英霊」として祀られる。これが最高の名誉である。この価値観が教え込まれ戦場で死に直面した時は靖国で会おう、と言い残して死んでいき「英霊」が「英霊」を呼ぶのがこのサイクルだ。国家のイデオロギーのために死ぬことを奨励が「英霊」の意味するところだ。

 

 

意味のない死から名誉の死へ

フロックの「英霊」発言は、この歴史を踏まえてのものであることは間違いないだろう。「英霊」を死者や尊い犠牲に置き換えても成立セリフで、敢えて「帝国」とセットで「英霊」が選ばれている。『進撃』では今までもメインキャラが死にまくるし、巨人領域に出れば毎回その大半が死んでいた。

ここで思い出してほしいのがウォールマリア奪還作戦だ。退路をふさがれ獣の投石に晒され、エルヴィンが新兵を率いて獣に特攻しその隙にリヴァイが獣を仕留める最終作戦が決行された。作戦の説明でエルヴィンは死に意味はないと言い、人生や生まれてきたことに意味がありこの意味を与えられるのは生者だけと続けた。今までに亡くなった仲間の死に意味を見出せるのは、生者が彼らの死を無駄にしないよう生きたときだとした。

死に意味はなく生に意味があるエルヴィン理論から死に意味付けをする「英霊」理論へと死の捉え方が180度転換している。国家やそのイデオロギーのために国民を死へ駆り立てることが名誉などと正当化されることは本来あってはならない。「英霊」理論は戦争をも正当化する装置だからだ。

さらに、死んだ兵士を「英霊」として神格化し祀ることは戦後の未来への禍根の種にもなりかねない。徴兵され無謀な作戦で行軍中に餓死した兵士しか「英霊」になってないわけではない。相手国を蹂躙した人間をも神格化するからだ。

神格化というと悪いことではないようにも響くが、特別視して対等な人間と見なしていないという点において神格化も蔑視と同じだ。

 

 

作品の良心:ジャン

「英霊」の言葉が持つ意味や背景を踏まえると、死者6名に対してうなだれたジャンの反応が活きてくる。生存率の低すぎる今までと比べれば、予定調和の奇襲だったとはいえ死者6名は「少ない」と言ってしまいたくなるのに(私はそう思ってしまった)作戦の現場指揮官として死者を悼み責任を感じることのできるジャンは、目には目を奇襲には奇襲を殲滅には殲滅をと拡大していく血で血を洗う戦争での良心だ。作中のキャラクターにとっても、我々視聴者(読者)にとっても。

やはり、現実世界の近代国家による戦争を彷彿とさせる描写において、非戦闘員の巻き添えをできるだけ避けたり、相手国への加害を省みたり、仲間や部下の死を悼むことを蔑ろにしない描写は欠けて欲しくない。

戦後75年経って戦争を扱った作品が『この世界の片隅に』のように、健気に生きた一般人にフォーカスされるようになって戦争の悲惨さをダイレクトに伝える描写が少なくなり、その認識が薄れていく昨今だからこそ、戦争を美化する「英霊」描写にはそのカウンターになる考えがセットで提示される必要がある。

ジャンは原作版『風の谷のナウシカ』でいうところのクシャナだ。頭が良くて戦闘能力も高く、指揮官として有能で仲間思い。『ナウシカ』でクシャナが戦後世界の再建を担ったように、地ならし後の世界があるなら、そこで必要なのは彼のようなリーダーだ。自分のことしか考えない内地で適当に暮らしたいだけの憲兵団志望だったのに。主人公の噛ませ犬(…馬?)的キャラから大躍進だな、ジャン!できた19歳だよ、将来が楽しみだ。生きろ、そなたは美しい。

 

 

アニメ『進撃の巨人』The Final Season 67話感想:あの凶弾はなぜ放たれたのか

見てない被害を否定する=加害を否定する

66話感想でガビの、信じたいものだけを信じて被害者意識に浸る傾向について指摘した。

 

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ガビの危うさの決定的な表れが、ガビの「私も見てない」発言だ。収容区への奇襲で亡くなった人々や踏みにじられたエルディア人の名誉挽回への努力を挙げ、なぜ被害に遭わなければならなかったのかわからないと叫んだガビに対して、ファルコはエレンとライナーの問答を思い出しながら「踏みにじられたからだ」と応えた。

パラディ島の人々もマーレの戦士の攻撃で踏みにじられたからだと。ガビは始祖奪還作戦を考えることもなく、ファルコに島が攻撃されるのを見たのか尋ね、ないと言った彼に「私も見てない」と続けた。

 

見てない、の後にガビが「見てないから被害なんてあったかわからない」と言ったわけでは確かにない。しかし、ファルコも自分も見てないのになぜそれを信じられる、信じなければならないのかとでも言いたげな間と、お決まりの「島の恨み節」を並べて飛行船の方向へ走って行ったのは、見てないものは存在しないとしたも同然だった。

 

ガビは、自分は見ていないことを理由にパラディ島の被害を全否定した。裏を返すと、マーレの戦士が行った壁内人類への虐殺を否定することと同義になる。

これは、「島の悪魔」が被害者でマーレの戦士が加害者だという彼女の信じたくないシナリオを無理やり否定し、自分の被害者としての立場と、収容区攻撃に対するパラディ島への報復を正当化する行為でしかない。

ガビのこの真実を捻じ曲げてでも否定して、客観的に見て理性的な思考を欠いた狂気とも取れる執念と、無自覚に信じたいものだけを信じる心理があの凶弾につながった。

 

 

見てなくても信じた被害

ガビの真偽よりも自分の信じたいものだけをロジックや証拠をまるで無視してまでも信じる思考は、67話ではこの発言以外にもあった。

ガビはジークは死んだと言って、飛行船を攻撃する口実にも挙げている。しかし、彼女は獣の巨人が倒されるところまでは見ているが、ジークが殺されるところは見ていない。獣を倒したリヴァイから手榴弾を投げられたあと、超大型巨人の爆発でその場を離れたからだ。

殺されるところを見ていないのに、殺されたとして自分の被害者意識の強化と報復の口実に無意識にしている。「戦士長を殺され巨人を奪われた私は被害者」という信じたいシナリオを無意識に作り出している。

しかも本人は自分の思考の矛盾にまったく気付いていない。さらに、自己の利益のために事実を捏造したことに無自覚なだけでなく、捏造を攻撃の根拠にしてしまった。

 

66話の感想で述べた通り、信じたいものと信じたくないものがあれば、信じたいものを信じてしまう「ガビ」はこの社会に一定数存在する。隣人や同僚、下手すると久々に会った家族が「ガビ」になっているかもしれない。「ガビ」をヤバい奴とウザがったり冷笑したり、放置して「凶弾」で倒れるのは自分の大切な人かもしれない。