世界拾遺記

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アニメ『進撃の巨人』感想④:『誰かにとっての「正義」は他の誰かにとっての「悪」』なんてクソ食らえ

正義について考え続けろ

進撃の巨人』アニメThe Final Season の広告ポスターに正義と悪の字が逆さに大きく書かれたものがあった。この世には「正義」も「悪」も無いとか、立場が違えば「正義」も「悪」になる、多様な「正義」を認め合えれば争いはなくなるとか、本当にこの国の人間は正義が嫌いで嫌いで仕方がないようだ。逆張り根性ほどダサいものはない。いくら作品が素晴らしくても、受け手や社会が未熟では作品の価値が損なわれてしまう。

果たして「正義」も「悪」も存在しないのだろうか。誰かにとっての「正義」は他の誰かにとっての「悪」で、誰かにとっての「悪」は他の誰かにとっての「正義」だからこの世に正義はないし、正義を追求することは無駄なのだろうか。

 

 

不寛容には不寛容を

多様性という言葉はとても響きが良い。多様性は言った者勝ち状態で、多様性を否定した方が自動的に多様性を認めない偏狭で排他的な思考の持ち主だと「悪」になる。最近では、差別も思想の多様性の一つだと免罪符としても機能し始めている。『進撃』の文脈で言えば、エルディア人を「悪魔の末裔」と呼び収容区に押し込み公民権を剥奪するのも多様性として認められるべきとなってしまう。

言うまでもないが、差別も多様性というのはありえない。哲学者カール・ポパーの寛容のパラドクスというのがある。不寛容にも寛容な社会はいずれ不寛容な社会になってしまうため、寛容な社会を維持するには不寛容には不寛容でなければならない。多様性という言葉は諸刃の剣だ。使う人間によって毒にも薬にもなる。

 

 

相対主義という思考停止

それだけでなく、多様性は相対主義でもある。相対主義とは、物事への捉え方は人それぞれであって正しさは存在しないという考え方だ。古代ギリシアのポリス、アテナイソフィストが弁論で他者を言いくるめる方法として発達させ、それを批判し普遍的な正しさを求めたのがソクラテスだった。「みんな違くてみんな良い」、誰かにとっての「正義」は他の誰かの「悪」で誰かにとっての「悪」は他の誰かにとっての「正義」といった具合に、何もかもを無条件に許容することであり、思考放棄だ。相対主義は、差別主義者の常套句「反差別は差別」を生んだ。

島のエルディア人は「悪魔」だから殲滅されてよいとか、子どもを大量虐殺兵器にするとか、イデオロギーのために歴史を捏造するとか、国家のために戦死すると「英霊」になれて名誉なことだとか、安楽死を強制するとか、自由のために世界を滅ぼすとか、これらを多様な「正義」(または「悪」)として何も考えずに肯定し合ったり、どっちもどっちで片付けてよいものだろうか。思考停止することが争いのない理想の世界へと前進するのだろうか。

 

 

多様性の罠

政治学ポリアーキーという考え方がある。戦争も差別も格差もない完全無欠の平和で理想的な社会は達成されることは極めて困難で、現実的に考えて不可能に限りなく近い。しかし、その理想に向かって思考を止めず実践し続けることで少しでも理想に近づき、常にその時で最善の社会が達成されるというものだ。「みんな違ってみんな良い」と多様性の無条件肯定はその対極にある。

多様性という言葉は社会をより良いものにするのに必要な思考を奪う罠がある。

マーレの戦士たちが始祖奪還の命を帯びて壁を破り壁内人類を大量虐殺したのは、彼らにも選択肢はない仕方のないことだったし、何もしなければ世界が島を攻撃してくるから民間人ごと蹂躙したのも仕方なかった。戦争なんてそんなもの。どっちが悪いとか、どっちが被害者で加害者かなんて白黒つけられない。こんなものは思考停止だ。

本来守られて然るべき子どもに大量殺戮をさせるのも、丸腰の民間人を宣戦布告も無しに襲うのも、島のエルディア人に生まれるという出生ガチャを引いただけの人を「悪魔」と蔑むのも、エルディア人を収容区に押し込み人権を奪うのも悪だ。人それぞれの「正義」があるそれが戦争しょうがない、なんてのが許されるのはせめて小学生の読書感想文が限界だ。

普遍的な正しさを常に追求し、その正しさが機能しているか常に考え続ける全然ラクじゃない姿勢が社会を好転させ理想へと近づける。