世界拾遺記

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ウポポイ訪問記:本土の和人、ウポポイへ行く

本土の和人、ウポポイを目指す

9月末に日本で7番目の国立博物館である国立アイヌ民族博物館と併設した「民族共生象徴空間」ウポポイへ行ってきた。現在、博物館はコロナ対策の入場規制が実施されている。しかし、完全事前予約制となっていることを知らず直前で予約をしたために、博物館の入場時間がその日の最終回である閉館の一時間前の19時からになってしまった。

前泊地の札幌から白老までの移動もあったため到着は13時過ぎごろとなったものの、博物館の入場までにタイムテーブルの決まっている屋外施設をほぼ見学することができた。晴れていて昼間は暖かくても昼夜の寒暖差が激しいため、昼間の温かさに気を緩めず防寒対策は必要だ。コンクリートジャングル・東京で育ったあまちゃん和人は北の大地に翻弄され、夕方以降は寒さに震えながらの見学となった。

 

 

博物館

さて、本題の博物館展示について語っていきたい。まず、博物館側は1時間で展示を見て周れると判断し、1時間ごとの入場予約制と設定したようだが、それはいくらなんでも厳しかった。じっくり見学・鑑賞し、説明書きを読むなら最低でも1時間半は欲しかった。展示方法に工夫が凝らされているもののそれでも展示は想像より少なく、やはり気になったのは和人によるアイヌへの迫害、搾取、差別の指摘の少なさだった。それらに触れていたのは商場知行制、場所請負制でアイヌを搾取したこと、明治期に同化政策の一貫としてアイヌの文化や風習を禁じ日本語教育を施したアイヌ学校の部分くらいだった。

 

 

終わらない植民地主義

アイヌへの差別や迫害、搾取は植民地主義に基づいているが、まず植民地主義に触れている展示がない。博物館に併設されたシアターで北海道の歴史をたどる映像ではアイヌモシリを北海道として日本が併合し、その影響でアイヌの人口減少や文化伝承の困難に陥ったことに触れられていたが、植民地主義とは一切でてこなかった。ウポポイのメイン施設から1キロほど離れたところにある慰霊碑が何のためのものかすら語られていない。この慰霊碑は植民地主義に依拠し、アイヌを「野蛮な土人」と見なしたうえで和人より「劣る」存在だとする結果ありきの似非科学に基づいた形質人類学の調査のために、無断で盗掘されたアイヌの墓から持ち出された遺骨の合同慰霊碑だ。この遺骨は永く大学(主に東大、京大、北大)で保管されており身元不明なものも多い。アイヌによる遺骨の返還と謝罪を黙殺されてきたため、返還は遅々として進んでいない。墓の盗掘と遺骨返還問題は、アイヌだけでなくもう1つの日本の先住民である琉球も同様であり、現在進行形で続く植民地主義である。国連ではDNAで「人種」の差異を特定すること自体差別と定義されている。

アイヌと和人の関係を説明するうえで植民地主義から我々和人が目を背けてはならないにも関わらず、説明書きの一部に申し訳程度に迫害について添えられただけで、植民地主義に直接言及する展示は一切なく、むしろ展示全体からは、「和人とアイヌは昔はケンカもしたけど今は仲良し!」といったストーリーが浮かび上がってくる醜悪さがあった。差別する側の和人が言っているグロテスクさは一塩だ。特に醜悪だったのは、現代でのアイヌの多方面での活躍を紹介するコーナーでアイヌ料理人の男性が「料理の才能を活かしアイヌの食文化を伝えるアイヌ」と美化されていたことだ。彼が料理人を志したのは、中学生当時学年一の秀才であったにも関わらずアイヌであるという出自を理由に教員から差別され進学を断念せざるを得なかったからだ。この差別と人権侵害を語らずアイヌ文化の担い手として和人がマジョリティである国の国立博物館で展示することは、植民地主義は終わっていないことを示唆している。

 

 

加害の歴史と向き合う

もちろん、博物館を和人とアイヌの負の歴史で埋めつくしてアイヌは「かわいそうな」民族だと宣伝しろと言っているのではない。言いたいのは、加害の歴史から目を背けるな、ただこれだけだ。加害の歴史と対峙することは惨めでも自虐でもない。これこそ歴史に対する敬意の払い方であり、加害した相手への最大の誠意だ。しかし、恥さらしなことに日本は戦後すぐに戦争加害の直視を「自虐史観」と非難し臭いものにふたをすることばかりを覚えてしまった。この加害の歴史からの逃走と歴史修正をあらゆる方面で繰り返すうちに、常套手段として定式化されてしまっている。朝鮮人への加害の歴史を記すことを条件に世界遺産に登録された軍艦島の名ばかりの資料館で行われていることでもある。

歴史修正主義者による加害の歴史からの逃避方法は、①被害はなかったととにかく主張する②被害があったとしてもそれは同じ日本人が受けたものであり日本人こそ被害者③自ら進んで志願したのであって被害妄想をこじらせている、の3つにパターン化されている。慰安婦問題も軍艦島の徴用工問題も、先住民差別もこのパターンで歴史修正やヘイトのネタにされている。こんな低能なことばかりに特化した国家の末路は再びの全体主義権威主義に他ならない。

 

 

「共に歌う」日は来るか

ウポポイの来場者の多くは和人であることに異論はないだろう。和人が植民地主義と今も続くアイヌを取り巻く差別やヘイトの現状を知ってようやく「民族共生象徴空間」に立てるのではないだろうか。それらに無知な状態では、「民族共生象徴空間」ではなくただアイヌ文化を娯楽化し消費するだけの空間に成り下がるだけである。ウポポイとは「共に歌う」という意味だ。和人もアイヌも、それ以外の民族的アイデンティティを有する人も「民族共生象徴空間」で「共に歌う」ためには、所属社会の民族的マジョリティ性とその暴力性を自覚し、差別と人権侵害を許さずに向き合い続けることが必要不可欠だ。

私自身、辺境や国境に惹かれそれを目的に旅をするボーダーツーリストであり、所属社会での民族マジョリティであることに胡坐をかき、マイノリティへの配慮や思慮に欠けること、その暴力性を自覚し差別を許さず人権を尊重し自己批判を絶やさないことを念頭に置いている。ウポポイへのこの感想と指摘は自戒でもある。