世界拾遺記

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『もののけ姫』感想:「日本」から周縁化された人々の物語

タタリ神は私だ

もののけ姫」を初めて見たのは小学生の時分だった。祟り神のおどろおどろしさは言うまでもなくゾッとしたし、エボシを「悪」として、年齢が近かったのもありサンやアシタカの肩を持ち感情移入していた。

しかし、ほぼ24歳になる2留目をぶちかましていた夏に初めてスクリーンで堪能した「もののけ姫」ではまず、タタリ神となり祟りの原因とは無関係なアシタカの村を襲ったナゴノ神を見て私だ、と思っていた。

 

アシタカの甘さ

村の家々が集まる中心地を目指す祟り神にアシタカは「静まりたまえ」と呼びかける。私はこう思っていた「丁寧な言葉や理性ではもうどうにもならねぇからタタリ神になってるのに、なに抜かしてんだよ。」

というのも、このナゴノ神の怒りや憎しみは身に覚えがあったからだ。私は女性蔑視やミソジニーを絶対許さないフェミニストだ。フェミニストとして女性が晒されている蔑視や偏見、差別を目の当たりにするときに湧き上がる感情と、ナゴノ神をタタリ神にしたそれは同じだ。私には、アシタカの「鎮まりたまえ」はトーンポリシングに聞こえた。アシタカはこの種の怒りを自覚したことがないゆえにできた発言であり、甘さだ。

 

 

社会的不条理への解像度

彼はこのあとタタリ神を攻撃したことで呪いを受け、祟りの種を身に宿しナゴノ神の怒りや憎しみを共有していく。ナゴノ神や私の怒りは、社会的弱者・劣勢に立たされたことがあるならば誰しも一度は持ったことがある又は十分に理解できる感情だ。それを知らないということは、弱者への想像力に欠ける傲慢な強者であり、自身が特権を振りかざしていることにすら気付いていないことと同義だ。

宮崎駿はアシタカを理不尽にババを引かされた「現代の若者」としているが、引かされなくても「生まれ」という変えられないババを割り当てられる人間もいる。親、生育環境、国籍、性別、それらを理由にした不条理な差別や不利益を自己責任と押し付ける社会や、それらとは無縁の社会的強者が「悪意なく」弱者を責めることは間違っている。

自己責任、努力不足と切り捨てた時点で自分はその点において特権を有しており、特権層というガラスの温室しか知らないナイーブな人間だと自覚が必要だ。ちなみにナイーブの英語での意味は、世間知らずで単純でバカという意味である。カタカナ語の「ナイーブ」のような繊細で傷つきやすいなどという意味はまったくない。アシタカの置かれた不条理な状況についてはより詳しく後述する。

 

 

タタラ場は「大きな政府」?

エボシはジブリ屈指の女傑であることは間違いない。「風の谷のナウシカ」のクシャナとも「天空の城ラピュタ」のドーラとも毛色の異なる女性だ。シシ神にまったく臆することなく石火矢を構える姿や引き連れたタタラ場の手勢に犠牲が出ようとも、総じてタタラ場全体に利益となることを優先する功利主義的側面はときに冷酷さとも取れる。しかし、タタラ場という共同体の指導者として住民に社会福祉を供給していることも間違いない。

 

エボシの過去

エボシは海外に売られ倭寇頭目の妻になり、実力をつけて頭目を殺害。日本に帰国しタタラ場を築いた。彼女の、アシタカの呪いの発露を目の当たりにしても動じない肝の太さや、神や迷信を恐れぬ豪胆さは奴隷時代に辛酸をなめ切り、地獄を味わった産物に違いない。そうすると、エボシが売られた女性を引き取ってしまうことは、タタラ場での労働力確保のためというより売られた女性にかつての自分を見ていることは想像に難くない。

 

エボシへの信頼の源泉

エボシを信頼できるのは、自身の味わった地獄から年下の女性を守っているからだ。例えば「私の頃は辛くても休ませてなんかもらえなかった。だから下の世代も同じ苦労をして苦しまないと割に合わない。」こうして負の連鎖に執着し改善を拒む「老害」は多い。エボシは地獄を断ち切り、売られていた女性を引き取り職を与え生活を保障する。たしかにタタラ場には女手が労働力、軍事力として必須であり、その補充にもなっていることは否定できない。しかし、重労働に見合わない低い対価しか支払われていない様子もなく、むしろ軍事力や製鉄作業での要職を若い女性たちが担っていることがタタラ場の女性たちの地位向上につながっているように見える。そもそも、タタラ(製鉄)は女人禁制とする迷信がある。エボシの近代的な思想の正の側面である。

売られた女性を引き取るだけでなく、エボシはハンセン病者も引き取り職と生活を保障している。ハンセン病は「業病」と呼ばれ、前世で罪人だったから、遺伝する病などと現代まで続く強烈な差別と偏見があった。ハンセン病者と関わることは、その人も偏見にさらされることを意味していた。それでも患者の包帯を替え、欠損した体でも可能な石火矢の改良という頭脳労働と生活を提供した。これはまさに「健康で文化的な最低限度の生活」をクリアしている。病気が進行して寝たきりとなった「長」の面倒を見るなど、彼女が決してハンセン病者たちを一方的に使役していたのではないことが伺える。働けなくなった病人に生きる権利と生活の保障をしている。裁判所が生活保護費削減を命じ、優生思想に基づいた嘱託殺人が起こる現代日本より充実の福祉と高い人権意識である。

これだけではない。エボシによる女性の重用が女性の地位向上につながっていたのと同様に、ハンセン病者への差別や偏見もエボシの権威によって軽減されていたのでないだろうか。ハンセン病者たちの職場を彼女は「恐れて誰も近寄りたがらない私の庭」と形容しているが、恐れはしていても彼らを排斥したい感情まで向けられているわけではないことや、シシ神退治中に武士に襲われたタタラ場ではハンセン病者たちと女性たちが共闘し最後は助け合いながらタタラ場を脱出している。

差別や偏見、ヘイトの無い素晴らしい社会と人々だったと手放しに賛美したいわけではない。女性蔑視や障碍者差別が現代社会よりも高度な次元で克服できていることは確かだが、人を寄せ付けぬ神々の森と山犬を克服すべき前近代の象徴と見なすことで、タタラ場の住人たちは結束を固めている。近代国民国家ナショナリズムに内包された排外主義のようでもある。山犬やシシ神の森を共通の敵にして「タタラ場」のアイデンティティを芽生えさせ、「国民意識」を共有する。

このように、売られた女性やハンセン病者に社会福祉を提供するタタラ場は「大きな政府」ではないだろうか。「大きな政府」の特徴として、大規模な国営事業がある。タタラ場の製鉄事業は実質的に「国営」と言える。タタラ場の共同体の指導者・エボシが経営し、タタラ場の主要産業は文字通り「タタラ場」だ。タタラ場の利益が社会的弱者救済の財源になっている。

 

 

日本の「正史」からこぼれ落ちた「邪道」な人々の物語

さて、ようやく本題に入る。「もののけ姫」は室町時代の日本列島を舞台にしており、緑の濃い山林や自然に宿る神々の描写はいかにも「日本的」だ。しかし、この物語を「美しい日本スゲー」映画などでは全くない。むしろその対極にある。なぜなら日本の「正史」には絶対に登場しない、というより登場させてはいけない周縁化された人々の物語が「もののけ姫」だからだ。

 

歴史教育の欺瞞

まず、わざわざ「日本史」ではなく「日本の『正史』」と表現したのにはわけがある。高校までの歴史教育で扱われる「日本史」は、時の政権が教えたい日本史に他ならない。それは「万世一系天皇が古から統治してきた世界でも他に例を見ない唯一無二の国・日本」というシナリオをしていて、数多ある歴史的事実の中からこのシナリオに沿うものだけを拾い上げ肉付けしてできている。つまり、日本列島のたどった歴史のほんの一側面でしかないだけでなく、かなり恣意的な誘導が組み込まれている。日本列島には昔から「日本人」しかいない、否である。朝廷や朝廷の権威に基づいた幕府によって古くから日本列島はあまねく支配・統治されてきた、これも同様に否である。歴史教育で扱われる日本史とは、歴史的事実で構成されたフィクションでしかない。では、なぜ歴史教育はフィクションを扱うのかというと、歴史教育愛国心教育とイコールだからだ。近代国民国家にとって、住人に国民意識愛国心を持たせることは必要不可欠であり、その手段として歴史が用いられてきた。「もののけ姫」では、教育を通して根深く植え付けられている「日本人」という色眼鏡を、二度とかけない勢いでかなぐり捨てて鑑賞する必要がある。

では、登場人物のマージナルぶりを見ていこう。まず、アシタカは東北地方の奥深くに追いやられたエミシの末裔だ。エミシとは、東北地方に居住していた人々で、征夷大将軍が討伐対象にしていた朝廷に従わない「まつろわぬ民」のことを指す。また、エミシはアイヌとも異なる。エミシは次第に姿を完全に消すが消滅したのか北上してアイヌと合流したのか、和人に混じっていったのかは不明なマイノリティだ。

そして、タタラ場の女性たちの「テンチョウサマ?ミカド?」「下界」といった言葉からわかるように、朝廷や天皇など知らない人々にはじまりハンセン病者、人身売買されていた女性によって構成されているのがタタラ場だ。そもそも、タタラ場の住人は農村などでは食っていけなかったり戦で故郷を追われてたどり着いたような人々の可能性が高い。

日本の「正史」や教科書、大河ドラマ、時代劇では絶対に描かれないような混沌とした活気や喧騒のある中世日本列島のリアルな姿を日本で影響力のあるアニメ監督が作品で表現してくれたことが嬉しくてたまらない。地上波で毎年ジブリアニメの放映があるたびに、たとえ放送されなくても、話題にのぼることもあるだろう。そうして何らかの形で常にスポットライトのあたることのない歴史が、本来の通りに受け取られていなくても社会的評価という説得力を得ている状況は、日本中世史の非王道を支持する立場からは貴重だと言える。ある意味で「反日」アニメであるそのスタンスにただただ敬意を表する。

 

 

25年たっても変わらないメッセージ

時を経ても変わらない普遍的メッセージすごい!などではまったくないことを申し上げておこう。監督にケチをつけたいわけではなく、25年たっても変わらないこの社会にケチをつけている。

 

「現代の若者」へ

「『もののけ姫』はこうして生まれた。」によると、監督は「もののけ姫」の主人公アシタカを不条理な運命を負わされた若者とし、「現代の若者」が置かれた境遇とリンクさせた。「現代の若者」も不条理にもババを引かされた境遇にあり、アシタカを通して、不条理な人生との付き合い方を示したいという思いが監督にはあった。「現代の若者」とカギカッコでくくっているのは、1995年の映画製作当時の「若者」を監督は指しているからだ。つまり、バブル崩壊後の不況しか知らず就職氷河期にも見舞われた世代のことだ。

さて、25年たった現在の若者の境遇は改善され、当時の「現代の若者」に突き付けられた不条理は過去のものになったと言えるのか。否だ。新自由主義の台頭で富めるものがさらに富み、貧困は自己責任とされ行政に見放された。「大きな政府」タタラ場との対比で息が詰まる。こうして賃金が上昇せず相対的に国際的に物価の安い国になった。オックスフォード大の研究によると、日本の中間層は貧困層へと没落したという。大卒新卒の初任給の手取りが20万円を切り、日本人の年収の中央値が350万円にとどかず、年金などもらえそうにないのに貯蓄もできない人が多数になった。金がないから消費しようがないのに「若者の○○離れ」とバブルの尺度を引きずった老害によるハラスメントが追い打ちをかけてくる。

 

現代の若者へ

そして、コロナ禍で浮き彫りになった感染拡大を若者をスケープゴートに言い訳を重ねる政治家と、首相以外誰も着用していない不潔な布マスクを配るためには466億円の税金を使っておいて、学生支援には10億円しか予算を割かない徹底ぶりを見せた。院卒者が働けても学歴に見合わない低賃金しか支払われず、海外への頭脳流出が止まらず「技術大国」をもはや過去のものにしてしまったことにすら気付かないのだから想定内とでもいうべきか。つまり、25年前の「若者」と現在の若者はババを押し付けられていることに変わりはなく、25年間にこの社会は改善していなかった。

四半世紀もの間、社会の不条理を放置し再生産した2020年の日本において「もののけ姫」がスクリーンで再上映となったことを皮肉だ、と冷笑しては不条理が再生産されるだけだ。受けた「呪い」を種に祟り神になって、また誰かに「呪い」を振りまいているだけだ。いい加減、アシタカのように呪いを解くために行動を取り「曇りなき眼で見定める」ときではないか。それにはまず、不条理を不条理と捉えるところから始めなければならない。「呪い」の出どころが巧妙に隠蔽されてきたからだ。受けた「呪い」は自己責任ではなく、不条理なものと社会全体で認識を改める必要がある。この点が含まれる分、25年前の「若者」より状況は過酷になった。それでも今回こそメッセージを受け取り「呪い」を解くだけではなく、もう一歩踏み込みたい。シシ神に石火矢を向けるエボシに刀を投げるしかできなかった甘さではなく、心臓を狙って確実に仕留める一打をここぞというときに放てる強さを持ちたい。

 

 


参考文献

浦谷年良アニメージュ増刊編集部篇(1998)『「もののけ姫」はこうして生まれた。』(株)徳間書店