世界拾遺記

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『ブリジャートン家』感想②:「現代のジェイン・オースティン」が描く近世ロンドン社交界ー1ー

 

 

『ブリジャートン家』は、19世紀前半のイギリス社交界を舞台にした物語だが、その展開はフェミニズムによって支えられている。原作小説の著者が「現代のジェイン・オースティン」と称されており、人種的多様性はドラマのプロデューサーによるが、フェミニズムに依った表現は原作由来という理解ではずれていないだろう。

 

 

婚姻における女性の主体性

ブリジャートン家の長女ダフネが誰と結婚するのかまでが物語のメインになっている。彼女は両親のような愛のある結婚と温かなな家庭を夢見ているが、彼女に結婚相手を自由に選ぶ権利は実質ない。ダフネはもちろん相手を選ぼうとするが、家長である長兄アンソニーはあたりまえに妹の結婚に干渉している。本人は歌手との身分違いの恋に身をやつして独身なのにだ。さらには彼は人を見る目も無かった。にもかかわらず、年長であり自身が見繕ってきたダフネの夫候補に賛成していない母を差し置いてアンソニーの許可がいる。これが家父長制だ。

母は例の夫候補にいい顔をしないが、彼女が表立って家長に意見する場面がない。家長の意見しか必要ない環境に長年置かれていると、そこに疑問を抱かなくなってしまうのだろう。

ダフネには許可が必要だった一方で、三男コリンは家族への相談も家長への伺いも無しにマリーナにプロポーズしている。

 

 

女性にだけ求められる処女性と家父長制におけるその機能

ロンドンの貴族社会では、未婚の女性は夜に庭で男性と2人きりになっただけでふしだらな卑しい女認定がなされ、偶然そうなったり不可抗力でそうなった場合は、醜聞になる前にその相手と結婚するしかなくなるそうだ。ここで重要なのは、名誉が傷つくのは女性だけで男性はそうならない非対称性だ。ダフネにつきまとい、夜の庭園で1人になったダフネに迫ったあの貴族もそれを知らなかったわけがない。自分への反応が悪いダフネに痺れを切らし、既成事実を作ろうとした。本当の紳士だったら相手女性がプロポーズに応じるのを待つか、叶わなければ相手のために身を引くのが当然の行いでなければならない。卑劣だ。

もちろん女性から男性に迫り結婚を要求することもできるが、断られた際にダメージを負うのは女性だけで、リスクがあまりにも大きすぎる。この慣習を利用して意中の相手から選択肢を奪うのはやはり男性の特権になっている。

もう一つ、処女性や清純さを女性にのみ求めるのは、女性を家父長制に誘導するためではないだろうか。家父長制は婚姻した男女とその子供からなる「家族」によって維持される。それを揺るがすような、家長の認めない相手と既成事実を作られ結婚を許可せざるを得なくなったり、未婚の母と婚外子からなる家父長制のポリシーに反する家族を排除するために機能しているように見えてならない。

このような処女性の神聖視も、男性と2人きりになった女性への蔑視も個人の人格を無視し特別視している点で同根と言える。つまり、女性を尊厳を有した一人の人間だと見なしておらず、モノのように扱っている。出産賛美や母性神話などの女性への神聖視も、一見すると貶めているわけではないから問題ないように思えてしまうが、対等な人間と見なしていない時点でアウトだ。

 

 

泣き寝入りするしかない被害者

勝手に入れ込んでくる男から襲われたダフネは、それがバレたらその相手と結婚しなくてはならなくなるため言えずに泣き寝入りするしかなかった。これは男性と二人きりになっただけでビッチ扱いになる当時の社交界に限った話ではない。現代でも、女性だけが名誉を失う非対称性のために性被害を届けでられない人は多い。

泣き寝入りに追い込まれる原因はこれだけではない。1人夜間に屋外にいた女性が責められたり、男性と女性で主張が食い違った場合、嘘つきにされるのは往々にして女性になるからでもある。加害行為が誰がどういう経緯でなされたのかによって断罪されるのではなく、結果ありきで女性が断罪される。女性の言葉が男性よりも軽んじられる。こうして女は口をふさがれてきた。

ダフネが実の兄にすら夜の庭で迫られた被害を打ち明けないのが印象的だ。性暴力に等しい被害にあっても家族にすら助けを求められないのが、この時代の貴族女性を取り巻く理不尽な環境だったとわかる。アンソニーは被害を知って加害者との婚姻破棄を決め妹を卑劣漢から守ろうとしてくれたが、ダフネの反応からしてバレたら醜聞になる前に結婚させるのが当時のデフォだったのだろう。差別や理不尽は選択肢を奪うのが特徴の一つだ。

 

 

続く